【コラム・秋元昭臣】小学生のころの話。春になると、土浦市内を流れる桜川には色とりどりのボートが浮かび、土手には舞台もできました。花見は土手に敷物を広げて弁当。ボートをこげない母は、弟に「いつかボートに乗りたいね」と話していました。

中学生のころの話。父や友人たちが入る土浦中学(現土浦一高)ボート部が、桜川畔の貸しボート屋「鈴木ボート」で、ヨット「早風号」を打つ(作る)ことなりました。私はボート屋の兄さんと顔見知りになり、小遣いをためてボートを貸してもらいました。桜川を下り、常磐線の鉄橋をくぐりると霞ケ浦が見え、波も風も大海のようでした。

高校(土浦一高)時代の話。創立間もないヨット部に入部。当時、事業用以外の小型モーターボートは免許がなくても運転できました。弟の高校入学祝いのときに小型を借り、霞ケ浦に出たのがモーターボートの初体験でした。

大学時代の話。ボートを借り、コウモリ傘を帆代わりにして遊びました。東京からの友人が浮き輪を持って来て、「これで大丈夫かな~」には笑いました。当時、ライフジャケットは貴重品。一高ヨット部で使っていたのは、霞ケ浦航海軍空隊予科練生が着用していたお古でした。

「ま~、ボートは木製だから、転覆しても浮いている。でも、オールだけは流さないで!」。これがボート屋のアドバイスでした。そこには下駄箱があり、靴を預けて乗ったものです。乗り逃げされないためだった? 船に乗ること=家に上がること? それが作法だったのかもしれません。

家族5人でヨット「早風号」を操船

ヨット「早風号」が完成すると、鈴木ボートで父の帰りを待って、家族5人で乗りました。空冷式の小型船外機を掛けて出発。桜川から霞ケ浦に入るところで、マストを立てる作業は楽しいものでした。

コースは風により違いましたが、霞ケ浦の(土浦海軍)航空隊跡沖から引き返すのが一つのルートでした。帆は2枚あり、小さな前帆(ジブセール)は子供たちが担当。大きな帆(メンセール)は父が舵(かじ)を取りながら操っていました。今に比べたら「ヨットまがい」でしたが、当時は霞ケ浦唯一。帆は地元「香取テント」製でした。

鈴木ボートの話では、霞ケ浦で初めてヨットを走らせたのは、茨城大学農学部の先生だったそうです。「早風号」は何度も改造され、私の一高ヨット部時代も、帆走の姿を見ることができました。(元ラクスマリーナ専務)