【コラム・高橋恵一】高田保は、土浦出身の劇作家、映画監督、舞台演出家、随筆家である。旧土浦町の旧家に生まれ、子供のころから気遣いができて話も面白く、同級の者以外とも交流するなど、人望が厚かったそうだ。

旧制土浦中学(現在の土浦一高)を経て早稲田大学の英文科に進み、頻繁に銀座に現れるなど生活を謳歌(おうか)したという。中学の入学試験はトップだったが、2位には阿見町出身の下村千秋がおり、その後、2人とも文筆の道に進んだ。

保は、大学在学中から新劇運動に参加。戯曲に取り組んだり、劇団の脚色、演出、小説の執筆など、幅広い分野で活動。人柄もあって幅広い付き合いがあった。

東京日日新聞(現・毎日新聞)の学芸部長だった阿部真之助から、菊池寛を顧問とした学芸部社友に、大宅壮一、横光利一,吉屋信子らとともに招かれ、活躍。彼らの文章を評して、「マクラの阿部真之助、サワリの大宅壮一、オチの高田保」と言われたこともあるという。

戦時中から体調を壊し、大磯(神奈川)に住まいを移し、晩年は、同じ大磯の志賀直哉の旧居に住んだ。

戦後、1951年の12月から、東京日日に、1日1文「あとさき雑話」を書き始め、新年からは表題を「ブラリひょうたん」に改めた。なぜ、ブラリなのか? なぜ、ひょうたんなのか? 1951年元旦のテーマは、「ブラリズム」だった。立つ位置を縛られず、真実と平和を、軽妙な文章で追及する意思、と私は読んだ。

この随筆では、保の豊富な才能がいかんなく発揮された。政治・社会から、文化・芸術まで、軽妙に取り上げ、菊田一夫(劇作家)と紙上で手紙を交換したり、廣津和郎(小説家、評論家)からは、他の記事を読まず、「ブラリひょうたん」だけを毎日待っていたと言われたりしている。

保と母の葬儀は土浦で一緒に

「ブラリひょうたん」で、私が気に入っている一つに、「税金と文化」に登場する奈良の「日吉館」という宿屋の話がある。古美術研究者など、金のない研究者たちが滞在できる宿屋として有名だった。

そこに、学生たちがコメだけは背負って来たから、安く泊めてくれと言ったら、50円でよろしい、その代わり、他の客より1時間早く起き、できるだけ沢山観て回りなさい、と答えたそうだ。

日吉館に居候のように巣食って、その後、有名な学者になった人も少なくない。古都の奈良美術を誇りとしている宿屋の気概を紹介するエピソードだが、この宿屋に、他の高級旅館並みの税金が課されて、宿屋の存続が危うくなったので、課税のあり方を考え直すべきだという内容である。

保の一面に、母親とのかかわりがある。旧士族の妻として、毅然(きぜん)とした振る舞いが、活け花の話題などで紹介される。

大船の母親のところには、30日か31日には年の暮れの挨拶に行き、元日にも年頭の辞を述べるために、大磯から行ったそうだ。その後、母親は土浦に疎開したのだが、「ブラリひょうたん」を休むと、母上が心配するからと、休みなく書き続けたという。

母親危篤の電報は、保の大喀血(かっけつ)の前日に届き、双方が死を知らなかった。2人の葬儀は、土浦で同時に行われたという。(地図好きの土浦人)