筑波から激戦地のフィリピンに渡り23歳で戦死した詩人・竹内浩三が、終戦から76年目の今年、生誕100年を迎えた。竹内は、青年期にある自身の気持ちを等身大の言葉でみずみずしく表現した詩人で、戦後、その作品群が詩集「戦死やあわれ」にまとめられるなど、たびたび注目されてきた。竹内は戦争末期の1年3カ月あまりを、今のつくば市作谷にあった西筑波陸軍飛行場の滑空部隊で訓練を積んだ。その日々を「筑波日記」と題した日記に記録した。

竹内とつくばの関係を再考する冊子にまとめたのは、つくば市北条で洋品店「とり文」を営む土子隆輝さん(78)。タイトルは「ないはずの記憶 竹内浩三がいた北条にて」、一昨年に刊行された。
竹内が北条を頻繁に訪れていたことを知ったのが、冊子作成のきっかけになった。冊子では、同時代を生きた父の日記を併記させ、生後間もない土子さん自身の記録とともに、そこにあったかもしれない竹内との接点を「ないはずの記憶」として表現した。
竹内浩三と北条
「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるや あわれ 遠い他国で ひょんと死ぬるや」
1945年フィリピン・バギオで戦死した竹内浩三が22歳で入営する直前に詠んだ代表作「骨のうたう」の冒頭の一節だ。竹内はこの詩で戦争の虚しさだけでなく、戦後を想像し、復興の中で世間から忘れられゆく戦死者の心も詠んでいた。
竹内は大正10年(1921)、呉服屋の長男として三重県で生まれた。18歳で上京し、日大芸術学部で映画監督を志すが、戦時体制強化の中、夢半ばで大学を繰り上げ卒業し陸軍に入営する。
竹内が筑波に転属したのは1943年9月。所属部隊が置かれた西筑波飛行場は、1940年10月に現在のつくば市作谷と吉沼にあたる地域に開設され、竹内が所属した滑空部隊の他に陸軍士官学校西筑波分教場が置かれていた。
翌年元日から書き始める日記は、周囲の目を盗み毎晩トイレにこもり書いたもの。手札ほどの大きさの手帳に、以降1日も欠かすことなく筑波での日々を書き綴った。厳しい検閲を逃れるため、分厚い本の一部をくり抜き手帳を隠し、三重の姉に届けた。
土子さんは筑波日記を読み、北条にあった「伊勢屋旅館」など身近な名前が登場することに驚いた。日記には、竹内が休日によく足を運んだ場所として、つくば市吉沼の書店「十一屋」などがあがる。近隣の宗道など下妻市内の地名や店名も頻出している。
父が書き残した日記 つくばとの接点
土子さんが生まれたのは、竹内が筑波に転属する前月。初めての子を得た父親は、喜びとともに息子の成長を日記に書き記した。北条をたびたび訪れた竹内は、土子さんの自宅前を行き来していたことが筑波日記から読み取れる。土子さんの実家は当時、竹内の生家と同じ呉服店を営んでいた。同業者である竹内は、店先で幼い土子さんを見かけると声かけ、その頭を撫で、家族に代わって胸に抱いたこともあったのではないか。筑波日記を読む土子さんは竹内との接点を想像した。

竹内の魅力を土子さんは、子どもに向ける優しさと、戦時下でも失わないユーモア、率直な感情表現にあるという。その豊かな才能は、「呼吸をするように詩が生まれた」(竹内浩三作品集)という言葉にも表れている。
現存する筑波日記は1944年7月まで。それ以降の記録は残っていない。「竹内なら、外地のことも含めて、その後も記録したはず」と土子さんは考える。冊子は150部作成し、知人を中心に配布した。竹内の地元・三重県伊勢市の竹内に縁がある人々とのつながりも生まれた。「歴史の中で、竹内の物語が北条と繋がったというのは貴重」と話す。
戦争への思い
冊子作成を通して親近感を持った竹内との縁は、互いが学生時代を過ごした町でも繋がった。
「竹内が学生生活を過ごした同じ地域で、私も学生時代下宿していたんですよ。竹内が過ごした20年後のことでした。戦争の前後で、大きな時代の違いを実感しました」
「生きていれば、映画、漫画、詩、様々な分野で才能を発揮したはず。(竹内は)ひょんと死んじゃったんですよね。惜しい人を殺してしまった。こういう殺し方をした戦争というのは、するものではないとつくづく思う」土子さんはそう話す。
三重県庁公報によれば、陸軍上等兵・竹内浩三は1945年4月9日、フィリピン・バギオ北方1052高地で戦死した。享年23。遺骨は、今も見つかっていない。(柴田大輔)