「霞ケ浦横断遠泳を楽しむ会」の実行委員長をしていた筑波大学名誉教授(体育学)の高橋伍郎さんが6月14日、亡くなった。84歳だった。稲敷市和田岬(旧桜川村)から行方市天王崎(旧麻生町)までの約2.5キロを泳ぐ夏の催し、1987年から2011年まで25回続き、毎回100~125人の泳ぎ自慢のスイマーが参加した。

ただ24回と最終回は、土浦市の田村町 -大岩田の約2キロに変更された。天王崎にあった国民宿舎白帆荘が閉鎖され、遠泳後の入浴、シャワー、懇親の場がなくなったからという。24回と25回が土浦コースになったのは、大岩田の国民宿舎水郷の施設を使うためだったが、同宿舎も閉鎖され、25回が最後になった。
高橋さんを悼み、遠泳イベントの「言い出しっぺ」鈴木明夫さん(元茨城県歯科医師会会長)、会の事務方を務めた糸山直文さん(元ジョイフルアスレティッククラブ社長)に、遠泳会を率いた「伍郎さん」「伍郎先生」の思い出を話してもらった。
ジョイフル本田会長との出会い
ホームセンター「ジョイフル本田」(本社・土浦市)が1985年、荒川沖店(同市北荒川沖町)のすぐそばに、「ジョイフルアスレティッククラブ(JAC)」をオープンさせた。同社の本田昌也会長(故人)はJACの目玉施設として50メートルプールをつくった。その設計について助言したのが伍郎さん。米国のスポーツクラブはどうなっているのか、本田会長と伍郎さんは米国まで調査に行った。
完成した本格プールで泳ぎを楽しむうち、クラブ会員の鈴木さん(かすみがうら市生まれ)が伍郎さんに「子どものころ遊んだ霞ケ浦で泳がないか」と提案。水質が懸念されたが、伍郎さんが「湖でとれたものを食べているのなら大丈夫」と遠泳会が生まれた。
霞ケ浦=水質の悪い湖のイメージを修正するのにピッタリと、会の発起人グループが竹内藤男知事(当時、故人)を訪ね、茨城県の支援を要請。知事は即決で初回100万円の補助を約束。その後も毎回60~100万円を予算化。1回目は、竹内知事がスタートのピストル合図を担当した。
「水は想像ほど汚くなかった」
遠泳会は競技ではなく、参加費3000円の「楽しむ会」。25人が1組になり、隊形を維持し、各2メートルの距離を取り、対岸天王崎を目指した。最大5班編成と決め、各班に和船が随伴した。報道船、救急船、カヌーも続いた。実行委員長の伍郎さんも一緒に泳ぎ、各班を回って泳者を励まし、安全をチェックした。

7月下旬~8月上旬に開かれたイベントを両岸の自治体も支援。出発地・和田岬では、出発を天王崎に知らせるために花火を打ち上げた。到着地・天王崎では、泳ぎ手の目標になるようにと連ダコを揚げた。
旧常陽新聞は第8回の様子を「参加者は県内全域から千葉県や東京都などにも及び、年齢も15歳から69歳までと幅広く、親子やカップルの参加者も見られた」「初出場の和知恵子さんは『完泳できてほっとしている。水は想像していたほど汚くなかったが、浄化が進んで魚や水草などが見える状態で泳ぐことができれば、素晴らしいと思う』と語り…」とリポートしている。
プールで水泳マラソン
台風で霞ケ浦横断が無理のときは、JACプールを使う遠泳会に切り替えた。クラブ内に設けられた「筑波スポーツ科学研究所」の所長もしていた伍郎さんは、水球もできる本格プールで、1万メートル、5000メートルの水泳マラソンも開いた。1月1日の正午から2日正午(JAC休館日)まで、6人の泳者が30分交代で泳ぐ「24時間スイム」も企画した。
伍郎さんの泳ぎ好きは半端でなく、猪苗代湖、田沢湖、浜名湖、洞爺湖など、全国の湖に出向いた。那珂川、四万十川などの川上りにもトライ。毎年、ワールドマスターズゲームにも参加した。
「いつも笑顔を絶やさなかった」
掲載写真を接写した「霞ケ浦横断遠泳10周年記念誌」(1997年刊)の編集を担当した亀田優子さん(不動産会社勤務)が、LINEで回覧された筑波大後輩の追悼文を送ってくれた。
「伍郎先生は、どんなときでも笑顔を絶やさなかった。色黒で立派な顎ひげをたくわえた面構えに、初対面の人は面食らう場合もあるだろうが、次の瞬間、人懐っこそうな満面の笑みに触れると、そのギャップもあってか、パッと人の心を開かせる不思議な魅力をお持ちであった」
合掌(岩田大志)