【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

明治22年、水戸在住の友人を訪ね、東京から水戸へ徒歩で向かった正岡子規は、土浦を過ぎ、意地っ張りを貫き通し、千代田町、ではなく今や「かすみがうら市」の水戸街道を北上した。

令和追歩組も、6号国道を石岡へ向かう。ゆったりした下り坂の先に、常磐自動車道千代田石岡ICへの誘導路が分岐する。上を常磐高速が横切り、下を6号国道、くぐったすぐ脇へ旧水戸街道が左手から合流してくる。合流点には、旧街道時代の一里塚が、気ぜわしく行き交う現代の車列をひっそりと見つめている。子規は、この一里塚を、くたびれきって通過していったにちがいない。

恋瀬川への坂を左カーブで下り、恋瀬橋の付け替えにともない設置された休憩施設が、恋瀬川ロードパーク。子規の時代に整備されていたら、子規先生、どんなにか喜び、足をもみさすったことか。

恋瀬橋を渡るとすぐに石岡市街。石岡駅への分岐の先で、JR常磐線の渡線橋をこえる。子規はその日、石岡泊とした。令和版は、まだ日も高く、両足からの不平信号も届かず、快調に歩を進める。

小美玉市に入る。園部川にかかる園部橋から西を遠望すると、筑波山の男体山、女体山の二峰がちょうど重なり、ひとつの鋭角三角形に見えてくる。子規は、土浦を過ぎたところで道標を見落とし筑波山へ立ち寄れなかったが、訪ねてみたかった無念が行間にうかがえる。

6号国道は、大曲を過ぎる。千貫桜という地名がある。水戸藩二代藩主光圀が、街道沿いの桜の名木を褒賞した由来にちなむ。子規も、桜について記している。「この辺の街道は松縄手にあらずして路の両側に桜の木を植う。木のたち皆のびのびとして高さ十間もあり」と、まだ咲かぬ三月の桜の枯れ枝を見上げている。

「足がすりきれるまで」歩く

茨城町に入り、6号国道は、ひときわ立派なバイパスへ分岐する。バイパスに歩道はなく、歩行者は立ち入れない。やむなく歩道の残る旧6号へ迂回する。

涸沼川を渡る。バイパスの開通のとばっちりで歩行者は、渡線橋を越えたり側道を上がり下りして、大回りのあげくに旧水戸街道=現在の国道50号へ出る。子規の時代は、かえってすっきり歩けたはず。

ここまで来れば、あとはひたすらまっすぐ進み、水戸は偕楽園の脇をとおり千波湖へ、さらにもうひとふんばりで水戸駅のはず、と目標が見えてきたとたん、足やら腰やら肩までが、ストライキのシュプレヒコールをあげはじめる。

もう少しだ、もう少しだ。となだめすかしながら歩くと、バス停の粗末なベンチを発見。バスに乗るわけではないが、ありがたい休憩ポイントとさせていただく。子規の「足がすりきれるまで」の述懐に、思わず納得。とはいうものの、休んでいてはいつまでも到着できないことは自明の理。

最後のふんばり。「どっこいしょ」と立ち上がる一歩が辛い。(作家)