【コラム・山口絹記】少し迷ったが、今回は本当のことについて書こうと思う。我ながら、思わせぶりな書き出しだ。何かについての本当のことを語るのではない。「本当のこと」そのものついて話してみよう。

多くの人々が共通の事物に関して本当のことを知りたいと思うとき、というのが、この世界では時折訪れる。多くの人々が求めるということは、すなわちその答えに需要があるということであり、需要があるということは価値があるということだ。

これが一般的な工業製品などであれば、製造には限界があり、対象の製品が品切れや生産中止になれば価値はうなぎのぼりになったりする。

しかし、本当のことは工場で作れるものではない。ざっくり言ってしまえば、私にもあなたにも、いくらでも作ることができる「ことば」だ。規格すら存在しない。需要があり、気軽に作れるからこそ、本当のことは氾濫する。

本当のこととはなんだろうか? 真実、事実、正しい解説、正確な情報? いくらでも言い換えはできるが、この手のことばを目にしたり聞いたときには、私は一歩引いてみることにしている。なぜなら、本当のこと、だとか、真実などというものは、世の中にたくさんあるからだ。求める人が多ければ多いほど、真実が一つになる可能性は低くなる。

私にとっての本当が、あなたにとっての本当であることもあるかもしれないが、そうでないことのほうが多い。この100年ぽっちの歴史を振り返って見ても、多くの人々が信じる本当が、時がたつにつれて当人たちにとっての本当ではなくなってしまったことなど、いくらでもある。

養われる審美眼が必要

つまるところ、本当のことというのは、自分にとって都合がよいことであり、いくらでも存在し、変容するからだろう。別に批判するつもりはない、そういうものなのだから。それでも、よく目にしたり、多くの人々が本当のことを大きな声で語っているときは注意しなければならないと感じている。

ならば、どうしたらいいのか、と言われてしまうかもしれない。ほら、どうしたらいいのかという問いに対する答えもまた、「本当のこと」だ。ここで私が何かしらの答えを提示してしまったら、それはまたひとつ、この世に本当のことを作ってしまうだろう。とはいえ、答えなどない、と投げ出すのも無責任なので、ここはひとつ、私のやり方を紹介しよう。

それは、「美しいものを探す」ことだ。本当でも、正しいでもなく、美しいもの。美しいと感じるものは自分で決めなければならない。美しいものを感じるためには、審美眼が必要だ。そして、審美眼というのは養われるものなのだ。それは、知識や経験、疑い調べ学び続ける意思に裏打ちされた直観だ。

そして、見つけた美しいものは、自分だけの大切なものとして胸の内にとどめておくことも、穏やかに日々を過ごすためのちょっとしたコツなのだ。(言語研究者)