【コラム・浅井和幸】Aさん「子どもに勉強しろと言っているのに、勉強しないので困っています」。浅井「では、しばらくの間、勉強しろと言わずに様子を見てみましょうか」。Aさん「それは私が、悪いというのですか? 私は間違ったことは言っていません」。

このような典型的なやり取りが、相談の中では起こります。双方の前提条件が食い違っているのです。Aさんは、正しい自分は変わる必要なく、勉強をしない悪い子どもの行動を変えてほしいので相談しているのです。行動を変えるのは間違ったことをしている人間で、正しいことをしている人間は行動を変える必要はないと考えます。この考え方は、むしろ常識的ですし、良識的です。

浅井は常識的な考えすべてをよしとは考えられない、ひねくれ者です。そのひねくれ者の考えは、一つ目:あまり物事を良いことと悪いことの二つに線引きしない。二つ目:物事を変えたいのであれば、何か現状と違う何かをする。三つ目:物事を変えたいと希望し、行動を変えられる人から変えて試してみる。ざっと挙げると、こんな感じです。

二つ目と三つ目は、ある程度の賛同を得られると思います。しかし、一つ目は、なかなか受け入れがたい考えかも知れません。悪いことをした人が行動を変えるべきで、罪を犯している人間が罰を与えられるのは当たり前である、悪が罰を受けることで、世の中は良くなっていくだろう—という考えが一般的だからです。

「正義や愛」にはちょっと警戒

そのすべてが間違いだとは言いませんが、良い方向に持っていきたいのであれば、良い材料を集めることの大切さも知って欲しいと常々考えています。悪者さえたたきつぶせばこの世は良くなるという「正義や愛」が、どれぐらいの悪を作り出しているかを想像すると、とても、怖いことだと私は感じています。(余談ですが、私は、「正義や愛」を掲げて寄ってくる人を、ちょっと警戒する癖があります)

「良い行動」「悪い行動」とは、どこにたどり着きたいかによるのです。前のAさんの話に戻し、仮に子どもに勉強をさせることが、たどり着きたい目標とします。そのときに、「勉強しなさい」が有効な手段ではないという結果が出ているのです。つまり、勉強をさせるには「悪い」働きかけと言えるでしょう。

むしろ、勉強道具を取り上げたほうが勉強をしたい気持ちになるかもしれませんし、大好きなカリスマの〇〇から「勉強しろ」と言われた方が勉強をするかもしれません。Aさんからお子さんに対して「勉強なんてしないでよいから、家の手伝いをしなさい」と言うのが、もしかしたら「良い」言葉がけになる可能性だって十分ありますよね?

良い天気とは、晴れでしょうか? 雨でしょうか? 一般的には、晴れですね。そんなことは普通ですし、当たり前の常識ですよね。さて、水不足でダムの貯水率が下がっています。そのとき、良い天気とは、晴れでしょうか? 雨でしょうか?(精神保健福祉士)