水曜日, 5月 15, 2024
ホームスポーツ常総学院出の鈴木投手(法大)ロッテ1位指名 プロ野球ドラフト会議

常総学院出の鈴木投手(法大)ロッテ1位指名 プロ野球ドラフト会議

【崎山勝功】プロ野球ドラフト会議が26日、東京都内で開かれ、12球団で支配下指名74人、育成49人の合計123人が指名された。千葉ロッテが1位で常総学院出身で法政大学の鈴木昭汰投手(22)=土浦市出身=を指名し交渉権を獲得するなどした。

鈴木投手は、身長175センチ、体重80キロ、左投げ左打ち。土浦四中では土浦霞ケ浦ボーイズに所属し、全国大会準優勝。常総学院高では1年春からベンチ入り、甲子園には3回出場し、2年春と3年夏は8強。法大では3年春にリーグ初勝利を挙げた。最速152キロのストレートを投げる力量を持ち、球団担当者は「1年目から先発ローテーションに入り、二ケタ勝利が期待できる」とのコメントを出した。

小沼健太投手(茨城アストロプラネッツ提供)

ロッテからは育成枠2巡目でBCリーグ茨城アストロプラネッツ(茨城AP、本部ひたちなか市)の小沼健太選手(22)が指名された。小沼選手は千葉県出身、身長189センチ、体重86キロ、右投げ右打ち。

筑波大・奈良木投手は巨人育成枠9巡目で

指名後の奈良木陸投手(写真提供/筑波大学アスレチックデパートメント)

筑波大学では、硬式野球部の奈良木陸投手(22)が、育成枠9巡目で巨人から指名された。同日夜のオンライン記者会見に応じた奈良木投手は「最後の最後で指名していただきホッとしている。一から力を付けてやっていく」と抱負を述べた。

奈良木投手は広島県出身、身長181.5センチ、体重90キロ、右投げ右打ち。育成枠契約だったことから「スタートに立っただけ、一軍で活躍してこそ見ている人を魅了できると思う」と支配下選手登録に向け抱負を語った。「小さい時から野球をやらせてもらっていた。こうして一つ夢が叶って、家族に対して野球でしっかり恩返しをしていきたい」と家族への感謝も述べた。
 

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img
spot_img

最近のコメント

最新記事

すてきな「つくばローズガーデン」《ご近所スケッチ》10

【コラム・川浪せつ子】「せめて連休中に咲いてほしいなぁ」と思っていたら、温暖化のせいか、バラの開花時期が数年前から半月ほど早まりました。今回のテーマは「なぜ人は絵を描くのか?」です。 2年少し前、実母が没した年齢を超えました。いつ「お空」に行くか、わからない。じゃあ、仕事を辞めて本当に好きなことをしよう。絵を描くことに集中しよう、という思いはよかったのですが…。 人生いつまでたっても、たくさん初体験。今年は3カ月半の間に5回も絵の展示。必死でお絵かき。 そうしたら、首から肩の痛みが取れない。絵だけの生活になって、ひどいギックリ腰を2回。展示会前日の夜まで描いているため、膀胱炎にも。疲労から?仕事では締め切り前に徹夜もして、どうにか乗り越えてきましたが…。 24時間絵のことばかり考えて 年齢を重ねたからということだけではなく、24時間絵のことばかり考えて…。仕事はルーチンワーク。自分の絵は新規の世界。全力で毎日走っているような。 仕事をしていると通帳の残高の数字は大きくなるけど、お絵かき(趣味)は残高が減るの…。でも止められないのはなぜ? そんな中、絵の仲間がたくさんできました。結論は出せないけど、「山になぜ登る」というのに似ているかもしれません。 登ったその風景を見たいから。そして自分の登ってきた足跡を振り返ることができるのは「生きてきた」証拠。そんなことで病み付きになるのかもしれません。 今回の「つくばローズガーデン」(つくば市古来)は本当にステキ! 上の絵も下の絵も10年前くらいに描いたものです。(イラストレーター)

点字本で「宇宙と物質の起源」 高エネ機構、筑波技術大と共同制作

「私たちはなぜ存在できているのか」という根源的な問いに迫る研究の成果を、視覚障害のある人にも共有してもらおうと高エネルギー加速器研究機構(KEK、つくば市大穂)素粒子原子核研究所(素核研、齊藤直人所長)が点字本「宇宙と物質の起源 『見えない世界』を理解する」を制作した。点訳や図版を触ってたどる触図化などに筑波技術大学(技大、つくば市天久保)障害者高等教育研究支援センターのチームが共同で取り組んだ。 素核研は素粒子、原子核、宇宙という微細と広大の両極を対象に、理論と実験の両側面から研究を行っている。点字本プロジェクトは2022年春に始まった。人文科学系の図書は点訳が比較的容易だが、自然科学系の図書は内容に精通した点訳者が少なく点訳や触図作成が難しいため、あまり流通しておらず、視覚障害者が物理学など自然科学に触れるのは難しい状況だった。 研究が宇宙と物質の起源という「見えない世界」を扱うこともあって、宇宙や物質について「もっと知りたい、学びたい」という視覚障害者の思いにこたえるべく点字本を企画した。同書の原本になる同名タイトルの書籍は今年3月、講談社ブルーバックスシリーズから発刊になっている。研究者がこれまでの知見や、今後の研究で解明が期待されることなどをやさしく解説した入門書となっている。 点字本は、書籍の本文部分が掲載された点字版と、書籍の図の部分が掲載された触図版で構成されている。研究者10人が「宇宙は何でできているのか」「元素の起源」「質量の起源」「力の起源」などのテーマごとに分担して執筆した原稿を、技大のチームが点訳を行った。元素の遷移を元素・陽子・電子・ニュートリノなどの記号を用いて解説したり、物質に質量を与えるとされるヒッグス場のポテンシャルエネルギーを示す式を提示したり、丁寧に説明している。 技大では、在籍する視覚障害の学生たちのために普段から教科書などの点訳を行っているが、素粒子分野の点訳を執筆者と共同で行うことは初めて。一般的な点訳は、すでに出版されている書籍が対象のため、障害者にわかりづらい文章や図の表現が含まれている。そのような場合、点訳者が原本を解釈して点訳を行い、点字本を作成する。しかし今回は、執筆者が原稿を執筆した後、視覚障害当事者による試読を経て文章を校正し、障害者にわかりやすい表現に修正した。 特に、書籍中のグラフや概念図のほとんどを省略することなく、文章と触図で表現した。点字の専門家である大学教職員と素粒子分野の専門家である執筆者が昨夏の1カ月間、議論を重ねたという。 点訳チームのメンバーの一人で、視覚障害当事者でもある技大の田中仁講師は「点字は創案以来、見えない人たちの新たなチャレンジとともに進化してきた。言葉、楽譜、数式、化学式、情報処理、図・表にわたる点字表現の豊かさはそのチャレンジの証です。点字表現の可能性を信じて点訳した」とコメントする。 素核研の齊藤所長は「今回とても印象的だったのは、視覚障害者が視覚以外の情報から対象を理解しようとするその集中力と情熱の深さ。もともと目には見えない素粒子や量子場を研究している我々は、いわば手探りで理解を積み上げていくという意味では、視覚障害者と同じ立場にある。力を合わせて一緒に探求できれば、新たな理解が生まれるのではないか」と期待を述べた。 触図版は個人や大学、研究機関などに貸し出しが可能。「宇宙と物質の起源 『見えない世界』を理解する」(新書判320ページ、定価1320円=税込み)で執筆者の受け取る印税は全額、寄付され、視覚障害者向け図書普及のために使われるそうだ。 ◆素核研の点字本プロジェクトポータルページはこちら

悪役どくろ仮面の正体は?《映画探偵団》76

【コラム・冠木新市】映画が始まった。タイトルバックから月光仮面の登場で「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている」と主題歌が流れると、館内は少年少女たちの大合唱となった。私も歌った。映画館で合唱を経験したのは後にも先にもこのときだけだ。 『月光仮面』は、1958年に作られた国産テレビ映画で大人気を巻き起こし、東映で劇場用映画が製作された。原作は川内康範、主演は大村文武、公開は7月30日。夏休みのときだった。白ずくめのスタイルと黒のサングラスが印象的だった。敵は黒頭巾に銀色のどくろ仮面。白は正義、黒は悪。一目で分かる対照的なコスチュームだ。 月光仮面の正体は祝十郎探偵であることを、子どもたちはみんな知っていた。だが、どくろ仮面の正体は分からなかった。 国際スパイ団の首領、どくろ仮面には、多くの手下がいる。一つは、首領に似た白のどくろ仮面をつけた黒マントの手下ども。もう一つは、黒のソフト帽にトレンチコ一ト姿で顔半分を黒覆面で隠している部下たち。あと一つは、素顔をさらした部下たちで、三つのグループに分かれていた。 私は首領に似た仮面を付けたグループの位が上だと思って見ていたが、黒のソフト帽の男たちのほうがが上のようだった。いささか過剰な組織だが、序列がしっかり決められていた。一方、月光仮面側、つまり祝十郎探偵側には、助手の五郎八らがいるものの階級制はなく、チ一厶といった印象だった。 後編の『月光仮面 絶海の死斗』で、どくろ仮面の正体が分かる。実は善人と思われていた科学者の赤星博士が、悪の親玉だったのだ。演じていたのは佐々木孝丸。オ一バ一な演技ではなく、リアルな大人の演技を見せていた。後に、新劇界の名優だと知る。 正義のフリした悪いやつ 赤星博士は、世間に信用された科学者。私もまんまとだまされた。それにしても、あの3種類の部下たちをどこでリクルートしたのだろうか。部下たちにも科学者がいるのか。赤星博士にとっては、科学者の姿が仮面であり、どくろ仮面の姿が本性なのだ。世間の肩書やイメージを信用しない私のクセは、映画『月光仮面』から始まったようだ。 『月光仮面』を見た後、少しおいて別の東映作品を見た。題名は忘れてしまったが、なんと正義の味方祝十郎役の大村文武が、悪党一味のチンピラ役で出ていたのだ。子ども心に軽いショックを受けた。正義のイメージを裏切られたからだ。映画会社も残酷なキャスティングをするものだ。 当時、作品と作品、映画と現実は地続きに思えていた。だから、正義の味方も悪いやつに変わる場合があると知って驚いた。 ところでテレビの『月光仮面』だが、子どもが月光仮面ごっこでケガしたり、物語に悪い代議士が登場したりしたためか、「俗悪番組」のレッテルを貼られ、正義側のPTAのやり玉に上がり、打ち切りとなる。ひどい時代だった。 正義のフリした悪いやつ。悪いやつに見えるがいいやつ。何事もイメージに流されないように、注意深く観察して正体を見極めようではないか。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

加藤彌進彦翁逝く 内原の地で完治の志を継いで《邑から日本を見る》159

【コラム・先﨑千尋】茨城県水戸市内原町にある日本農業実践学園名誉学園長の加藤彌進彦(やすひこ)翁が、3月末に亡くなった。享年102。翁は、満蒙開拓に深く関わり、生涯を農村青少年教育に捧(ささ)げた加藤完治の3男として、1921(大正10)年、山形県に生まれた。 北海道大学農学部を卒業後、妻の実家の栃木県山前村(現真岡市)で農業に従事し、同村農協監事として農協再建に奔走した。52年、父完治が戦後に入植した福島県西郷村(現白河市)の白河報徳開拓地に移り、開拓農協の組合長に就任した。組合長として、道路網の整備、飲料水の確保、電気の導入など農業以前の諸問題の解決に努力し、農業面では酪農経営を柱とした。 58年に、ヨーロッパで農業実習をしたいという夢がかない、国際農友会から派欧農業実習生としてスイスに派遣された。配属された農家は首都ベルン市近郊にあり、酪農と畑作の混合経営。1年半、厳しい自然条件の中で、牧草刈りなど汗まみれになって働いた。 スイスは、2度の世界大戦に翻弄され、その苦い経験から、国民が必要とする食糧は国内で作るという方針を国是としてきた。「農産物価格は農家の生産費を補償する」ことになっており、山岳地帯の農業に対しては手厚い配慮がなされた。アルプスの景観は、国からの農家への直接補償がもたらしたものだ。 翁の長男で現日本農業実践学園理事長の達人さんは「スイスでの体験は父彌進彦の人生の土台になっている。農業に打ち込む生き方はこの時期に定まった」と語る。翁は「スイスは第2の故郷」と書き残している。 帰国後も翁は乳価の引き上げや東京への送乳など酪農組合の諸問題の解決に奔走し、白河の地に骨を埋める気持ちでいた。県議への出馬を要請されるなど、政治の世界への関心も持っていた。 戦後の農協運営や農村青年教育に貢献 しかし、64年春に、日本国民高等学校協会の那須皓理事長から呼ばれ、日本高等国民学校長就任を要請された。現在の実践学園は、当時は日本高等国民学校という名称だった。その後、日本実践大学校になり、91年に現在の校名になった。協会はその運営母体だ。翁は「校長だった80歳の父・完治にこれ以上の苦労はかけられない」という思いもあって、同年9月に校長に就任し、93年まで務めた。校長退任後も、95歳になるまで学生の指導に当たった。 就任に際して、校長自ら学生とともに農業の実践に取り組むこと、学校の経営基盤を確立すること、職員の待遇改善を図ることの3つを自らの任務とした。達人さんによれば、初代完治は立派な農民を育てる教育者であり、農業はカネもうけのためにあるのではないと考えていた。学校経営のことは考えずに、ひたすら教育のみ。学校経営の支援は、元農林大臣の石黒忠篤、財界の渋沢栄一らが担っていた。しかし、それらの人々が世を去り、支援は期待できなくなっていた。 翁が校長に就任して取り組んだのは、学校施設の農場中央への移転、酪農部の新設、栄養士養成課程の創設、外国人研修生の受け入れ、水田の改良と職員住宅の改善など多岐にわたる。初代の時には国からの補助金は入れてこなかったが、翁は積極的に農林省に働きかけ、施設の建設費や人件費に補助金を得ることができた。民間の支援が得られなくなったからでもある。同校の卒業生は累計で約6000人。全国の農村で活躍している。 戦後の農協運営や農村青年教育に深く関わってきた翁の逝去は、一つの時代が終わったことを私に知らせてくれた。今後は、バトンを受け継いだ次の世代が新しい農の未来を開いていってくれることを願うばかりだ。(元瓜連町長)