【コラム・古家晴美】茨城県でもようやく緊急事態宣言が解除されましたね。油断は禁物ですが、ホッと一息、新茶を楽しまれている方もいらっしゃるのではないでしょうか。今年の八十八夜は、5月1日とのことです。緑茶はよく飲むけれど、茶葉は購入するという方がほとんどだと思います。しかし、昭和30年代ごろまでは、どこの家でも家庭で飲む茶葉を自給していた地域がありました。

ここで取り上げるのは、牛久市下根(しもね)・東猯穴(ひがしまみあな)・島田地区の自家用茶の栽培と製造です。5月上旬に1日がかりで1年分の茶を摘みます。隣近所の人々とユイ(労働交換)で互いに協力しながら行うこともありました。

茶の木の上の部分の新芽は腰をかがめて摘むことができましたが、下の方は座らねばなりません。その際は、俵(たわら)の側面の円形部分のわら細工をお尻に敷いたこともあったとか。摘んだ新芽はチャブカシという竹で編んだ蒸籠で蒸してから、ホイロ(焙炉、紙製やトタン製などの乾燥炉)の上にあけ、下から間接的に加熱しながら、茶葉が針のように細くなるまで手で揉(も)みあげるという、気の遠くなるような作業が必要でした。

その後に乾燥させて仕上げるのですから、一連の工程は、夜明け前に始めても終わるのは日暮れ後という、非常に手間のかかるものでした。特に茶を揉んでほぐす作業は、暑くなり始めた季節に火の前で行わねばならなかったので、大変な重労働だったようです。茶摘みは女性、手揉みは男性の仕事でした。

お茶を飲みながら新緑を眺める

平成に入ってからもしばらく、このような自家用のお茶を栽培していた農家もあったそうです。畑のまわりに植えられた茶の木は、飲用以外に畑の土の飛散防止にも役立っていました。自家用の茶を飲まなくなってからも、茶の木を防風用に残している農家もあります(『下根・柏田・東狸穴の民俗』『島田の民俗』)。

このような自家用の煎茶の栽培・製造は、関東各地で行われていました。しかし、昭和16年に、北海道から沖縄まで全国58カ所で行われた「食集調査」によれば、半数以上の28カ所で自家用の茶を製造していますが、西日本の大半の地域では、自家用の茶としては番茶を製造していました。

地域により若干の違いはありますが、自家用の「番茶」とは、「煎茶」に使う新芽を刈り取った後に出てきた2番茶・3番茶を刈り取り、ホイロを使った丁寧な手もみは行わず、干して保存し、必要なときに煮出して飲むものです。これらの番茶は、飲用以外に茶がゆや茶漬けなどに用いられてきました。

テレワークから徐々に日常生活へと戻りつつあるこの時期、お茶をいただきながら新緑を眺めるのもよいのでは。(筑波学院大学教授)