【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

幕末の元治元年(1864)、藤田小四郎たち水戸藩改革派諸派連合の天狗党は、美濃国(現在の岐阜県)濃尾平野の北端、揖斐(いび)宿へ辿りついた。濃尾平野を横断すれば関ケ原。さらに進めば琵琶湖。湖岸を回りこめば、頼りとする一橋慶喜が政務する京へ、あとわずか。

天狗党は、これまでの行軍で遵守してきた規律にしたがい、行く手の通過予定領大垣藩へ使者をたてた。

「争いを起こす所存はありません。穏便に通してほしい」

対する大垣藩からの返答は、天狗党を震撼させた。

「水戸藩天狗党追討のために出陣された一橋慶喜様より、先陣を担うように命じられています。平野へ出陣されるとあれば、一戦を交えねばなりません」

京で天狗党の行動を監視していた慶喜は、「天狗接近」の報を得るや朝廷に、「天狗勢追討」の願書を自ら提出し、出陣の指揮をとっていた。天狗党にとっては驚愕至極。何という天変。頼りとしてきた慶喜様が追討の指揮とは…。これからいったいどう動けば…。どこを目指せば…。

混迷の軍議が繰り返された。たったひとつ確かな道理は、慶喜様の軍勢と戦端をひらくわけにはいかないという立脚点。とすれば、進むべき行く手は。

難行軍823名 慶喜に降伏

軍議を繰り返す中で天狗党は、尊攘を信奉し天狗党を側面から支援する地元医師棚橋衡平(たなはしこうへい)の勧めにしたがい、揖斐から北方の山岳地帯へ向かい、蠅帽子(はいぼうし)峠を越えて越前国(現在の福井県)への迂回路を選択した。慶喜と戦わずに京へ迫る。

季節は、厳冬へ向かう師走。名だたる豪雪地帯。地元民さえ通わない氷雪の峠越えへ天狗党は、かすかな活路をもとめた。深い峡谷沿いの崖をぬう狭い杣道が、鉛色に凍りついている。天狗党の隊員たちは、黙々と進んだ。

峠越えの途中で何人かの隊員が、前途に見切りをつけ脱走していった。また、凍った崖を踏み外し、谷底へ転落し絶命した隊員もいた。それでも天狗勢はついに、執念の鬼と化し亡霊のような雪まみれ姿で、蠅帽子峠を越えた。下った先は、越前大野藩領。

天狗来襲を聞きつけた大野藩は、行く先々の集落を焼き落とし、天狗党の行軍宿泊を側面から妨害した。それでも天狗党は、間道を抜け新保(しんぽ)宿へ入る。新保宿で天狗党は、間道前方の葉原(はばら)宿に、加賀藩軍が布陣していることを知る。

加賀藩兵は、琵琶湖岸へ出陣していた慶喜の命で動いていた。心情的に天狗党へ肩入れする加賀藩士永原甚七郎は、戦闘を避けるべく慶喜との仲介の労をとり、天狗党を説得する。

そしてついに藤田小四郎たち天狗党の一党は、慶喜に降伏状を提出し、加賀藩勢に捕らわれの身となる。ここまで難行軍をともにしてきた降伏者823名。筑波山挙兵以来9カ月目のこと。(作家)