【ノベル・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて
元治元年(1864年)11月、水戸藩改革派諸派は、常陸国大子町で大同団結し、自らを「天狗党」と名乗りあげた。総勢は、約千人。
総大将は武田耕雲斎(たけだ・こううんさい、元水戸藩家老、改革派鎮派の首領)、大軍師に山国兵部(やまぐに・ひょうぶ、水戸藩目付、太平山に立て籠もった藤田小四郎たちの説得に向かった使者役)、本陣に田丸稲之衛門(たまる・いなのえもん、藤田小四郎筑波山挙兵の際に請われて大将、元水戸町奉行)、輔翼(ほよく)に藤田小四郎と竹内百太郎(たけうち・ひゃくたろう、現在のかすみがうら市安食の豪農出身)という、堂々たる布陣を結成した。
京に、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)の一橋慶喜(とくがわ・よしのぶ)がいる。天狗党は軍議を開き、慶喜を頼り朝廷に真意を訴えるべく西上を決議した。
一橋慶喜は水戸藩九代藩主斉昭(なりあき)の七男、京にあって幕末激動の政治情勢の渦中にいる。かつて武田耕雲斎も藤田小四郎も、京へ上った慶喜を補佐した経験をもっていた。その深い紐帯(ちゅうたい)に結ばれる慶喜様が天狗党を受け入れてくれぬはずはないと、楽観的すぎる拙策(せっさく)で小四郎たちは西上を決意した。
天狗党は、ひとつの連合軍としての結成に際し、厳しい自己規制の軍律を定めた。筑波山挙兵当時からの同志であり、日光東照宮参拝頓挫後に強盗まがいの略奪行為に走った田中愿蔵(げんぞう)たちの非道を戒め、天狗党への誤解を払拭するために是が非でも守らねばならぬ軍律だった。
愿蔵たちの悪行は、どれほどか天狗党の名を貶(おとし)め、また通過地域民衆の反発を招いたかしれない。新生天狗党の西上出立にあたっては、踏み入れる土地土地での支援が絶対に必要だった。
無辜(むこ)の人民を手負わせ殺害するな、財産をかすめとるな、婦女子をみだりに近づけるな、作物を荒らすな。そして、それらを犯す不届き者は斬首(ざんしゅ)にするとの、極刑厳罰でのぞむ軍律だった。
金産出の地 大子の山
規律正しく天狗党は、粛々と大子の町を後に、西へ向けて出立していった。
振り返れば天狗党の西上は奇妙な軌跡である。もともと水戸城への進軍を計り那珂川北岸に布陣、そこで敗れ、常陸国山間地へ迂回した特段の理由は何だったのか。なぜ険しい山道の峠越えまでして「寄り道」をしたのか。
武田耕雲斎も藤田小四郎も、この間の事情については、いっさい語らない。
大子の山は、佐竹時代から金が多く産出された地である。水戸藩二代目藩主光圀(みつくに)は、佐竹の金山を再興させ水戸藩財政の支えとすべく、大子周辺を探索した節がある。家老まで勤めた武田耕雲斎や斉昭の懐刀(ふところがたな)藤田東湖(ふじた・とうこ)の四男小四郎が、水戸藩独自の金情報をつかんでいた可能性はある。あるいは、金そのものを…。
天狗党は、大子を後に整然と下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)北部大田原から那須野が原を経て、京へ向かってゆく。(作家)
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