【ノベル・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて
元治元年(1864)、筑波山大御堂(おおみどう)で挙兵した藤田小四郎たち水戸藩改革派激派天狗勢は、日光東照宮を目指し進軍を開始した。この地から攘夷実行の大号令を発する目論みだった。
しかし、東照宮参上はもろくも頓挫(とんざ)する。頼りにしていた宇都宮藩からの支援は得られず、参上を阻止されてしまう。日光奉行のはからいで、幹部数人だけが、ほんの申し訳程度に東照宮へ上がると、本隊はその後、追い返されてしまう。東照宮からの大号令は、幻となってしまった。
已(や)む無く小四郎たちは、下野国(今の栃木県)太平山(おおひらやま)をあらたな拠点として陣をしくが、先々の見込みは立たなかった。むしろ水戸藩攘夷勢力の壊滅を策謀する幕府側が迅速果断(じんそくかだん)な動きで、小四郎たちを封じ込めてゆく。
幕府は水戸藩に対し、攘夷勢力の一掃をもとめ、改革派鎮派の家老武田耕雲斎(たけだ・こううんさい)を罷免(ひめん)させ、また、太平山に立て籠もる小四郎たちへ解散するよう説得する使者をたてよと強要する。
幕府の意向を受け、水戸藩の実権を握った旧門閥派(諸生派とよばれる)の市川三左衛門(いちかわ・さんざえもん)らは、小四郎たち天狗勢の追討をはじめる。追討軍には、幕府が各藩から集めた連合軍までが加わる。藤田小四郎は不本意のまま、反幕府勢力の頭目と位置付けされてしまう立場におかれる。兵法としては、いかにも抜かりの多い筑波山挙兵だった。
旧門閥派諸生派勢と改革派諸派
しかし天狗勢は、水戸藩からの解散要求に応ぜず太平山を下り、本来の本拠である水戸へ再入城しようとする。ここで、城内はおろか市中への進軍さえ拒まれ、已む無く水戸の北方、那珂川の北岸に陣をしくこととなった。
そのころ、市川三左衛門たち諸生派から見れば同じ攘夷派とひとくくりにされた武田耕雲斎たち攘夷鎮派も、水戸城下を追われ那珂川北岸へ逃げのびた。図らずも北岸に、攘夷勢が揃ってしまう。
川を挟んで旧門閥派諸生派勢と改革派諸派は、激戦をかさね一進一退を繰り返すが、幕府軍の後ろ盾を得ている諸生派は、次第に攻勢を強め、数度にわたり渡河の総攻撃を敢行、ついに改革派諸派を那珂川北岸から追い落とす。
改革派諸派は、それぞれ別々に、水戸とは反対方向になる北方へ敗走した。バラバラに常陸国北部の山間地帯を進み、各地で幕府軍と激戦を展開する。ついに、月居(つきおり)峠、洞坂(どうさか)峠での銃撃戦網を突破し、大子(だいご)町内へ落ちのびた。
大子の商家に落ち着いた鎮派、激派の幹部たちは一堂に会し軍議をひらき、以後の統一行動を約す。ここにはじめて名実ともに、自らを「天狗党」と名乗り攘夷を目指す武装集団が結成される。
天狗党は軍議をかさね、西上を決意する。頼りは、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)として京に在住する一橋慶喜。(作家)
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