【コラム・浅井和幸】情報過多という言葉がすんなりと聞き入れられるほどの昨今、安直な厳罰化を求める声があちこちから聞こえてきます。「目には目を歯には歯を」。傷つけられたら、傷つけた奴に同じ苦痛を味わわせるという考え方です。場合によっては、傷つけられた以上の害を与えることが更生の道につながるという、正義の感覚なのでしょう。
やり返したいという気持ちは、十分に理解できる人間的な感覚ではあります。かなり前に流行った「倍返しだ」が成功すれば、精神的には清々することもなくはありません。
遠い昔のように、打ち首獄門(ごくもん)、お家取りつぶしなどの重い罰を課すことで、表面的な犯罪が減る可能性はあります。それはかなり窮屈(きゅうくつ)な世界で、ある権力者の価値観に左右されやすい可能性をはらみますね。現在ではあまり現実的な方法とは考えにくいです。
現実的なところでは、厳罰化することでよりよい社会になっていくという正義感は、事実から少し外れていることでもあります。というのも、ルールを破る、罪を犯す人と、罰を与える人の間に敵対関係があると、罰を与えて更生させるということから離れてしまうものなのです。むしろ敵からの罰は反発を招き、よりルール破りの行動化を誘うものなのです。
敵からのアドバイスは反発の対象に
考えてみてください。もしあなたが、待ち合わせの時間に遅れてしまったなどの軽いルール破りをしてしたとします。嫌いな人、ウマの合わない人からの叱責(しっせき)を受けたとして、次から時間に遅れないようにしようと素直に聞き入れられるでしょうか。むしろ反発して、お前だっていつも約束を守れるわけじゃないだろうと反論したくなるし、その人と約束をしたくないと考えてしまうのではないでしょうか。
それが、好きな人、大切な人から注意されたら、素直に自分が悪かった、次からは時間をきちんと守ろうと考えられるものですよね。
そうなのです。罰とまで行かなくとも、アドバイスも味方から受けるから聞き入れられるもので、敵からのアドバイスは拒否や反発の対象になってしまいやすいのです。相手の行動や考えを正したい、そう思ったときは、嫌な敵になるのではなく、話を聞き入れたいという仲間関係になることが大きな要素になるものです。
行き違いになっている関係。もう一度、見直してみることから始めましょう。(精神保健福祉士)
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