【コラム・先﨑千尋】わが国の市民運動をけん引してきた須田春海(すだ・はるみ)さんがこの7月に亡くなった。彼は早生まれなので、学年は私より1年上だが、同い年だった。須田さんは私にとって兄貴分であり、同志だった。2009年にALS(筋萎縮性側索硬化症)の診断を受け、自宅で療養を続けてきた。
10月9日に東京で「須田春海さんを偲び遺志を受け継ぐ会」が開かれた。200人近い人が集まり、各方面から彼の活動ぶりなどのスピーチがあり、交流の広さを知ることができた。
須田さんは、市民運動全国センターや市民立法機構などで、抵抗型の市民運動ではなく参加型の運動を提唱し、政治を一部の人に任せるのではなく、政策づくりの根幹から市民が参加していくことを訴え続けてきた。
私と須田さんの関わりは、環境自治体会議の運営と日韓市民社会フォーラムの2つだけだったが、彼の強烈な個性、それでいて人を磁石で吸い上げるようなスカウト力、人を見抜く力などに魅了された一人だ。
環境自治体会議は、ブラジルのリオデジャネイロで地球サミットが開かれた1992年、北海道池田町、沖縄県読谷村とわが瓜連町が全国の自治体などに呼び掛けて始められた。須田さんは病で倒れるまでその事務局長として自治体会議を主導し、環境を自治体運営の根幹に据えるべきだと提唱し続けた。
国と地方自治体は対等・平等?
わが国の行政の運営は、明治以降、国が中心にあり、都道府県、市町村はその下に置かれてきた。支配・従属の関係だった。1999年に地方分権一括法が制定され、国と地方自治体は対等・平等となったはずだが、現実の姿はもとのままにしか見えない。
私は環境自治体会議の運営にずっと関わってきたが、この会議では、首長、議員、職員、市民運動家、学生などすべての参加者が同じ目線で議論し、学ぶ。国と市町村が縦の関係だと、隣の町で何をしているのか知らなくともよかった。どんなすばらしいことを隣でやっていても、わが町はカンケイなかった。
しかし、この会議に出て、環境問題への取り組み、まちづくりですばらしい取り組みをしているところが実に多いことに気づき、いいところを真似しよう、という気になった。須田さんの狙いはそこにあったのだと考えている。
須田さんの父親は須田禎一。朝日新聞から北海道新聞に移り、流れに抗する精神を持ち続けていた。60年安保闘争のとき、樺美智子さんが警官に殺された翌日(6月16日)、全国紙は「そのよってきたるゆえんは別として、事態収拾のため国会正常化に協力しよう」という「七社宣言」を発表した。須田さんの北海道新聞はこれに加わらなかった。
私は学生時代、禎一の書く「エコノミスト」のコラム「氷焔(ひむろ)」などを愛読していた。その切れ味、小気味よさにしばし酔いしれたものだ。茨城に関しては、評伝『風見章とその時代』(みすず書房)を書いている。環境自治体会議の運営に参加する中で禎一が春海さんの父だったことを聞かされ、禎一を身近に感じることができるようになった。禎一の父は誠太郎。行方郡牛堀で「治水の父」と呼ばれた人だ。
春海さんとの想い出が、私の頭の中を走馬灯のようにぐるぐる回っている。(元瓜連町長)
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