【コラム・沼尻正芳】今、前に描いた筑波山の絵「収穫の頃」を手直ししています。筑波山の麓には田園地帯が広がり、収穫期は黄金色(こがねいろ)一色になります。一面に頭(こうべ)を垂れて実る稲穂、空にたなびく雲が筑波山の山肌に陰影を落とします。青い空に白い雲、黄金に輝く稲穂と青々とした筑波山、その色を対比させて描きました。

この絵は2017年にF80号の大きさで仕上げ、アトリエに飾りました。毎日眺めていると、微妙なところが少しずつ気になり始めました。それが何か分からず、眺めては改善点を探っていました。

土浦で本堂清絵描き60余年回顧展を観たとき、本堂さんから「真ん中で構図が分かれることを『腹切り』と言って、避けた方がよい。黄金比を活用して構図をつくると絵が安定する」とアドバイスをいただきました。

家に帰ってこの絵を見ると、地平線が画面のほぼ中央になっています。筑波山だけでなく空の広がりや田園の広がりも表現しようとしたため、「腹切り」のような構図になったのです。絵を眺めていて微妙に満足できない原因の一つが、この構図のように思いました。筑波山も稲穂も空もあれもこれも表現したいと欲張りすぎて、説明が多い散漫な画面になったように感じました。

「収穫の頃」の絵の主役はあくまでも筑波山です。絵を枠からはがし、稲穂の下半分を切って絵の高さをPサイズに縮めて地平線を下げました。前より主役がはっきりしてきましたが、まだ説明が多いように感じました。もっと削ぎ落とし焦点を絞ってみよう。

絵の四辺をさらに切ってF50号の枠に張りかえました。画面が小さくなった分、筑波山が大きく迫ってきました。説明は極力避け、微妙な部分を加筆修正しながらバランスを整え、再びアトリエに飾りました。

推敲は無限に続くもので完成はない

その絵を眺めながら、もっともっと心を絵に込められると思うようになりました。光や色の輝き、山を取り巻く空気、風や雲の流れ、稲穂のざわめき、麓の人の営みなどの微妙なところや躍動感などをさらに表現できそうだ。

「一度仕上げてからの思考や工夫が大切、そこからが作品づくりだよ」と、私は授業の中で子どもたちに言いました。評論家の亀井勝一郎は、かつて、次のように書いています。「芸術は、いかなる場合でも、人間の心の微妙性の追求を生命とするものです。簡単には裁断のできない、人間の心の無限の深さと謎を追究するわけで、それだからこそ、たとえば文章の上でも、推敲(すいこう)というものが行われるわけです。しかも推敲は無限に続くもので、ここにも完成はありえません。推敲の無限とは、表現における微妙性の無限追求と同義であります」

絵の表現が微妙に気になって、3年がかりで手直すことになりました。「収穫の頃」(筑波山)の絵は、初めと今では全く違う絵になり、前よりも存在感が出てきたように感じます。

蛇足ですが、筑波山麓南西部で収穫する米は、特別に「北条米」と呼ばれるブランド米です。昭和初期の「皇室献上米」で、魚沼コシヒカリと並ぶ特Aの評価です。筑波山由来のミネラル豊かな湧き水が川に流れ、その水がおいしい米を育てます。今、農業者の高齢化が進み、後継者問題が深刻です。社会も自然も急激に変化しています。筑波山麓の豊かな実りがいつまでも続いていくことを願うばかりです。(画家)

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