【戦後74年の夏】5 引揚者住宅から始まった土浦の戦後 ジオラマで蘇る少年時代

原の前住宅にあった4棟長屋の模型は上から間取りをのぞける構造になっている=土浦市中、原ノ前公民館

【相澤冬樹】この春、土浦市立博物館で開かれた特別展「町の記憶―空都土浦とその時代」、海軍航空隊や戦前の町の記憶をたどる展示に、入場者が思い思いに見入る会場で、ほとんど全員が足を止めるコーナーがあった。同市原の前にあった引揚者住宅の模型、街区全体を住宅地図のように復元したジオラマで、見下ろす来館者たちが「これあそこじゃない?」などと記憶を呼び覚ますシーンが見られた。

戦後生まれが大多数となった来館者に、戦争や銃後の暮らしの「記憶」はない。だから戦前を引き継ぐ風景や地図は思い出を語る糸口になりやすい。しかし模型製作者の同市中(なか)、大貫幾久男さん(71)を訪ねると、旧海軍航空廠(しょう)の兵舎跡とされる引揚者住宅に、戦前の生活は刻まれていなかったというのである。

同市右籾の第一海軍航空廠(現在の陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地)は終戦に前後して取り壊され、その現場作業に就くため父親が栃木県藤岡から土浦にやってきたのは1947年のこと。翌48年に生まれた大貫さんは5人きょうだいの末弟だった。当時の土浦には、戦争終結に伴い引き揚げてきた無縁故の(国内に身寄りのない)在外邦人を収容する「引揚寮」が数多く設けられていた。空き家となった海軍住宅や航空廠の工員宿舎が多数あり、転用されたためだ。その戸数約800という。

6畳一間に7人が暮らす

原の前の引揚者住宅もその一つ。大貫さんの入居した住宅は47年に払い下げられているが、「真っ先だったから、一番南の見晴らしのいい住戸に入れたと聞いた」という。43年ごろ工員宿舎用に接収され建設されたが、戦局の悪化で入居者を迎えないまま終戦に至った。復員軍人や引揚者向けに入居者募集が行われたのは戦後になってからだった。

入居当時の引揚者住宅での暮らしを語る大貫さん=同

住宅は6畳の和室一間と板敷3畳の台所に土間のついた間取りで、4軒を一棟に連ねた長屋状の建物だった。これが南北に最大16棟並んで、全93戸があった。杉板を張り合わせた外壁、杉皮で葺かれた屋根、4軒共用の井戸があった。長屋の両端の家は地続きの畑が使えたが、内側の2軒は離れた区画に畑を持ったそうだ。

原の前はかつての字名で中村、今の住居表示で中の一部にあるが、93戸の住宅は周囲から孤立して立地していた。父親の職場だった霞ケ浦駐屯地は常磐線の通る谷津地形をはさんだ対岸にあり、東京通勤者は谷津のあぜ道を歩き線路伝いに荒川沖駅に出たのだった。

地区内に商店はないから、畑を耕し、鶏を飼う「自給自足」の生活となった。住宅に風呂はなく、1キロ以上離れた右籾や大房の銭湯に通う日々だったという。両地区とも引揚者住宅から街区形成が進んだ町内だ。

大貫さんは常磐線に向かって立つ広告看板の下でよく遊んだ。白髪染めの「君が代」と清酒の「白雪」だけは覚えている。6畳一間の住宅に一家7人が暮らしたが、高校進学を機に単身東京の親戚宅に身を寄せたそうだ。のちに原の前に戻って、以前は畑だった場所に自宅を建てたが、少年時代の原風景に年々郷愁を募らせた。

原ノ前公民館に展示

約60年前の記憶をたどる形で模型を作り始めたのは2015年からだった。古い家に長く暮らした姉や周囲の人たちに聞き込みをするなどして、まず4棟長屋を作り、それから概ね200分の1の縮尺で全住戸を配したジオラマを作った。自身は建設関係の仕事に就いていたが、技術職ではなく、柱や梁の建て方など見様見真似での製作となった。

それぞれ1年ほどを掛けて16年には2点が仕上がった。「ほとんど我流。子供のころ好きだった住宅模型の工作を思い出しながら作業した」そうだが、趣味の日本画で培った筆遣いが役立った。田畑や台地の植栽はもとより、井戸や鶏小屋のディテールにまでこだわった。「君が代」と「酒の白雪」も書き入れた。その鮮やかな再現性が特別展で評価されたのだった。

原の前の引揚者住宅は水道が引かれると各戸こぞって家風呂を設け、敷地いっぱいに増改築を繰り返し、やがて周辺にも戸建て住宅が張り付いた。4棟長屋から分離された当時のままの家屋が今も1、2棟残っているが、住む人はいない。「戦争の記憶が薄れるように、僕らが生きた戦後の時代も忘れかけられている。そういう作業を一緒にしたいという人がいれば、また模型を作ってもいいと思っている」と大貫さん。2つの住宅模型は今、原ノ前公民館に展示されている。

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