戦後74年目の終戦の日が今年も巡ってくる。戦争体験者が高齢化し、戦争の実態を次世代にどう伝え、平和への願いをどう引き継げばいいのか。74年前と今をつなぐ夏の景色を追った。
【田中めぐみ】土浦市に住む山口あささん(98)は、16歳で母を亡くし、戦時中は父と妹と3人で土浦駅のそばで暮らした。兄は兵士として中国に行き、弟は横須賀海軍航空隊に所属した。
信仰が心の支えに
あささんが小学4年生の時、長屋の前を通っていると美しい讃美歌が聞こえ、思わず中に入った。キリスト教の講義所だった。大人たちが優しく招き入れてくれたのがきっかけで講義所に通うようになり、クリスチャンとなった。戦時中も週に1度は集まりに参加した。「一生懸命努力して自分の力を出して働きなさい、そして良いことを行いなさい」という牧師の話を聞くと、いつも元気になって帰ることができたという。教会では皆が協力して食べ物を持ち寄り、行けばいつでも食べ物があった。教会は心の支えだったと話す。
あささんは戦前から、叔父の経営する会社で洋裁の技術を生かし、学生服を縫って働いた。太平洋戦争が始まる1941年には、社長だった叔父が従業員を並べ、「これから戦争になる。縫うものにも混ぜ物が入るかもしれない」と話をした。「こんな大きい戦争になるとは思いもしなかった」という。
男子が兵隊に取られ、労働力が不足すると、一時期、東京に出て、品川の軍需工場で働いた。しかし、洋裁のことも忘れなかった。学生服だけではなく家族が着る物も縫えるようになりたいと、夜間は五反田にある洋裁の製図専門学校に通った。昼間は軍需工場でラジオの真空管を作り、夜は学校に通う生活が1年半ほど続いた。仕事の行き帰りや昼休みには、同僚と干し芋を食べるのが楽しみだったという。「みんな同じ境遇だから辛くはなかった。どこに行っても楽しみはあるもの」と話す。戦中から今に至るまで、洋裁の仕事を辞めずに続けてきたことが誇りだという。
阿見大空襲、町が赤く燃えた
土浦に戻ったある日、大岩田の畑にじゃがいもを植える勤労奉仕をしていた時、数匹の猫を見つけ、嫌がってひっかくのを無理やり抱いて1匹連れ帰った。猫はすぐになつき、「ミーちゃん」と名付けかわいがった。空襲警報のサイレンが鳴ると、猫を抱いて一緒に防空壕に逃げた。
土浦ではほとんど怖い経験はなかったが、1945年6月10日の阿見大空襲の時は、B29に爆撃された町が赤く燃えているのを見て恐ろしかったと振り返る。
駅前は歩けないほどの人混み
終戦の年、あささんは24歳だった。8月15日の玉音放送の日、土浦駅前は人でごった返した。玉音放送がよく聞こえず何が起こったか分からない人、敗戦を信じられない人、日本が負けたと悟っている人、多くの人々が互いに情報を求め、駅前に詰めかけていた。
歩けないほどの人混みの中、教会に向かっていると、途中で泣いている若い女性と出会った。夫が霞ケ浦海軍航空隊に所属しているという。女性は何が起こったのか分からず、とにかく海軍航空隊に行けば情報が得られるのではと考え、遠くから来たということだった。泣く女性を連れて教会に行くと、牧師はいつも通り落ち着いていて、「大丈夫だから」と話してくれた。あささんは安心し、その女性も気持ちを落ち着け、帰っていった。駅前の人々もそれぞれの方法で納得し、帰ったようだった。
町を見下ろし涙があふれた
幸いなことに、終戦後すぐ中国に出征していた兄が帰ってきた。追って横須賀の海軍航空隊にいた弟も無事戻った。父は兄と弟の無事を心から喜んだ。
戦時中は貴重品などの荷物を真鍋の親戚に預けていた。終戦の翌年の2月、預けていた荷物を取りに行き、真鍋の坂から土浦の町を見下ろした時、思わず涙があふれてきた。「これでやっと終わった」。あささんは、この時初めて終戦を実感しほっとした。その翌日、土浦に雪が降ったことを覚えている。
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