宍塚大池は3本の谷津をせきとめて造られた広さが3.5haのため池で、上空から見ると「大」字形をしています。いつの時代に造られたのかわかりませんが、江戸時代の古地図には亀池の名で出てきます。大池の水は下流にある谷津田だけでなく、今でも平場の田んぼの耕作に広く利用されている現役のため池で、農林水産省「ため池百選」に選定されています。

池は、雨水と池の周辺の台地から流れ出る湧き水が水源です。大雨のあと、一気に水かさが増すように見えますが、その後かなり長時間水が増え続け、池の周りの林が水を貯えるダムになっていることが分かります。1980年代初頭まで、宍塚は松林が広がっていました。

しかし、里山が利用されなくなったことから、マツノザイセンチュウによる松枯れが広がり、松林がコナラなどの雑木林に変わっていきました。松が多かったころの大池は水面に松がうつり、池が黒々と見え、神秘的に見えました。今はそのころに比べると明るい池になりましたが、大池に初めてやって来た人は、異口同音こんないいところがあったと大層驚きます。

池を一周する道はありません。池の周囲に広い山があることで、貴重な生き物の生存が可能になっていることが調査の結果明らかになっています。

さて、「宍塚の自然と歴史の会」発足2年前(1987年)、宍塚大池を含む一帯に開発計画があることが新聞に載りました。太い道路によって、大池を囲む広い森を分断、住宅地、商業地などに分けられ、新たな街の構想が描かれていました。

そのころ、宍塚大池とその一帯は、地元の方だけでなく、この静かなたたずまいに魅了されていた人々が結構いました。近隣の子ども会、PTA活動などを通してこの場所を知った人々、野鳥のグループなど、知る限りでもかなり多くの人がやって来ていました。

しかし、この開発計画は知る人がほとんどいない中で進められていました。あとで分かったことですが、使っていない土地は「未利用地」といい、開発が当然と考えていた人たちがいて、開発計画は地権者と行政によって進められていたのです。地権者が、使われていない里山の開発を望むことはあり得ると思いますが、行政が開発だけを秘密裏に進めることには疑問を持ちました。

新聞で開発計画を知って間もない1988年、朝日新聞社水戸支社が「茨城の自然百選」の募集を開始しました(同社のグリーンキャンペーンの一環で、茨城県、茨城放送、森林文化協会の協力で、県内外の一般公募で100カ所を選定)。1989年、「茨城の自然百選」(筑波書林)として出版されました。これには県内の自然がほぼまんべんなく紹介されていますが、「宍塚大池」は貴重な「自然」の宝庫として紹介されています。(及川ひろみ)