【コラム・奥井登美子】NHKの朝ドラ「なつぞら」を見ながらの朝食が楽しい。この間、敗戦直後の上野駅の場面が出てきた。見たとたん、私の記憶の一部がはじけ飛んでしまった。
学生時代の昭和26年。上野桜木町にあった東京薬科大学女子部に通うのに、上野駅で降り、芸大の前を通って行くのが一番の近道だった。
高校時代に厳しく発声法を教えてくれた石桁先生が芸大の教授になり、美術部にも高校の同級生がいたりして、芸大に楽しい行事があると誘ってくれるので、この通学コースはお気に入りのコースだった。
上野駅の浅草側構内には、浮浪児が何百人とたむろしていた。公園口の今の西洋美術館の辺りは、いつも100人以上の浮浪者が掘っ立て小屋を建て生活している。敗戦後の都内でも異様な場所だった。
問題は浮浪者の群れだ。なるべく遠くの方を歩いていたが、ある日、2人の男に囲まれてしまった。「学生さん、学生さん、弁当をお持ちですか。俺たちなにも食うものがなくて、死にそうなんです。お願いします、今持っている弁当を半分いただけませんか」。
私は2人から発散する異様な臭いに圧倒されて、半分くらいならいいかと、軽い気持で弁当をあげてしまった。
次の日、駅を降りたら、まるで待っていたように、昨日、弁当をあげた浮浪者に再び囲まれてしまった。言葉もていねいで、悪いことをする人たちではなさそうであるが、痩せさらばえた身体の、衣服の強烈な臭気が鼻を突いて、怖かった。
東京大空襲 大量の死体を処理
昭和20年3月10日。298機の飛行機から東京下町に1783トンの爆弾が投下された東京大空襲。死体の処理場がなくて、消防団員、受刑者まで動員。上野の山に大量の死体を埋めた経緯(いきさつ)が、吉村昭著「東京の戦争」(筑摩書房ちくま文庫)に詳しく書かれている。
私の通学したそのころも、東京都の腕章を巻いた男の人が、桜の木の下をスコップで掘り起こし、大空襲のときに臨時に埋めて処理した死体の骨を拾っていた。
西洋美術館が世界遺産になり、上野の山は、博物館、科学博物館、美術館と、日本の文化の中心地になっているが、私は70年近く経った今でも、悲しくて、切なくて、上野の山の桜を心から楽しむことが出来ないでいる。(随筆家)
➡奥井登美子さんの過去のコラムはこちら