【コラム・沼澤篤】前回のコラムで、霞ケ浦地方が江戸期の利根川東遷に端を発する首都開発の陰で犠牲になってきたという論旨を展開した。実は、話はそれで終わらないことが霞ケ浦問題の難しさ。

利根川東遷による土砂の運搬、堆積でかつての古鬼怒湾、香取海が浅くなり、十六島をはじめ、多くの洲や島が出現した。現在その場所は、香取市から稲敷市にかけて穀倉地帯になり、美味しい米の品種が作付けされている。江戸時代の簑和田浦(御留川と呼ばれた幕府禁漁区)や榎浦は現在、本新干拓地,稲波干拓地となり、山形県や富山県からの入植者が世代を継いでいる。

利根川東遷による水害常襲地が、長い時間をかけた人々の営為によって、美田や酪農地帯に変貌した。退路を断って入植した方々が、自分の選択が正解になるように、困難を切り抜けて日々努力した結果である。

干拓を推進した事業家、干拓農業の指導者、土地改良区の関係者の努力も忘れてはならない。また治水の父、須田誠太郎氏(元牛堀町長)はじめ、利根川水系の霞ケ浦・北浦の築堤、利根川と常陸利根川最下流の分離、直線化、浚渫(しゅんせつ)、拡幅、常陸川水門建設による水位管理や塩害防止に取り組んだ技術者や行政職員の努力も特筆される。

置かれた立場で頑張るしかない

ただし全てが良かったわけではない。流入河川河口部の内湖的浅瀬は自然浄化作用が大きく、魚類などの繁殖の場所であるが、干拓によって多くが失われたことが霞ケ浦の水質悪化や魚類の激減を招いた。築堤も岸辺の植生や砂浜を激減させた。常陸川水門は湖水の閉鎖性を高め、結果的に富栄養化を加速度的に促した。

海から遡上する魚類の通過が困難になり、金銭補償されたが、漁業に大打撃を与えた。水質悪化は、流域の産業化(養豚、レンコン、コイ養殖など)と生活排水に起因するところも大きい。最悪期のアオコ大発生の要因は複合的であった。

しかし、地域社会は徐々に法整備、政策の高度化、下水道整備をはじめ、多額の予算を投入した諸対策を実施してきた。家庭排水対策など住民の意識向上の成果もある。その結果、霞ケ浦の環境は少しずつ改善されてきた。水害の心配が少なくなった湖水は住民生活の安定に貢献した。

利根川東遷等によって常総地方が首都発展の犠牲になったことは事実だが、個人レベルでも地域社会レベルでも逆境をはねかえし、選択した道が正解になるように、長い間の努力によって、県南、県西、鹿行地方のインフラや産業構造を形成してきた。

8年前の東日本大震災と原発事故で被災した福島県内の中学校卒業式で、校長が巣立つ卒業生へ「選んだ道が正解となるように努力してください」と祝辞を贈ったことがテレビで報道された。我々はどのような時代であれ、置かれた立場で頑張るしかないのだろう。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)

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