【コラム・相沢冬樹】4月1日は筑波山神社の春の御座替(おざがわり)祭、昨年は11月1日の秋の御座替を前に宮司の解任騒ぎが広がる中での開催となったが、今回はどうか。本稿を書いている時点で、辞任した宮司の後任は決まっていない。
春と秋の御座替祭は筑波山最大のお祭りで、本宮と里宮との間で御神体を交換する。この春でいえば、男体山と女体山の本殿で神衣(かむい)を新しいものと取り替える衣替え神事の「神衣祭(かんみそさい)」が朝9時30分から始まり、神衣を乗せた神輿(みこし)が山を下り中腹の拝殿まで行列を組んで渡御する「神幸祭(じんこうさい)」が午後2時過ぎに行われる段取りである。
山登りの隊列は平安調の山吹色の装束に彩られ、神官や巫女(みこ)の立ち居振る舞いも古式ゆかしい、と言いたいところだが、この形式が定まったのはそんな昔のことではない。かつては夏至と冬至に行われたといい、明治の初めには里宮は別の神社にあった。
筑波山南麓の山中、つくば市臼井にある六所皇大神宮。今は神社ではない。山の斜面に沿う石段に2基の鳥居を構えているが、社殿はなく、神社跡地を整備した霊跡地ということである。かつてこの地に所在した六所神社は、神武天皇4年(紀元前657年!)創建と伝わる。
しかし、六所神社は明治政府の小社合祀(ごうし)の政策により廃社の憂き目にあった。やはり山麓の神郡地区にある蚕影(こかげ)神社に合祀となり、氏子の大半は筑波神社に編入され、明治の末には社殿などが壊された。霊跡縁起には「輪換の美を極めたる社殿を始め寶庫(ほうこ)随神門及び其他を破壊し遂に此畏(ここかしこ)き霊跡は荒廃に帰したり」と書かれている。
この惨状を見かねたのが大正時代、峰行(ほうぎょう)で筑波山を訪れた高木福太郎氏。立ち上げた宗教法人、奣照(おうしょう)修徳会で、霊跡地としての復興を提唱、整備保存活動を行うようになった。
復興整備は大正4年(1915)までに成就し、翌年から地元の六所集落と合同で春の例祭「六所大祭」が始まった。地元区長らは「受け入れがたい明治の廃社だったが、40戸ほどの集落ではどうにもならなかった。復興して100年続けてこれたのは修徳会のおかげと思っている」と感謝を述べる。今年も4月10日に六所大祭が行われ、全国から信者が集まる。翌11日、東京・田端の修徳会本部で行われるのが「神御衣祭(かんみそさい)」。御座替祭の原型がここにたどりついたというわけだ。
六所のいわれに二つの説
山自体が御神体の筑波山には神社が多い。筑波山神社の摂社になっている安座常(あざとこ)神社、小原木神社、渡神社、稲村神社の4柱に、男体山の筑波男大神、女体山の筑波女大神の2柱を加え、6柱を祭ったのが六所神社とされるが、これには異論もある。
六所大祭を執り行う青木宗道氏によれば、「大化改新のころ、ここに国府を置こうとしたことがあった。久慈、那珂、多賀、茨城、新治、筑波の6郡を治めることから、六所の名がついた」そうだ。とかく神様の山の人事は難しい。
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