水曜日, 3月 25, 2026
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市長公室長、再任用で続投 つくば市人事

【鈴木宏子】つくば市は4月1日付け人事異動を内示した。31日付けで退職する部長級4人のうち、松本玲子市長公室長は再任用で同公室長を続投する。新任の都市計画部長に中根祐一農業委員会事務部局長、生活環境部長に風見昌幸選挙管理委員会事務部局長、議会事務局長に川崎誠同次長がそれぞれ就任する。

異動総数は258人(全職員の19.7%)で、継続性を重視し必要最低限の人事配置とするという。3月末の定年退職者は78人、2019年度の新規採用職員は85人で、職員数は前年度よりさらに33人増え1843人になる。

女性管理職の割合は前年度より0.8ポイントあがって22%になる。再任用職員数は前年度比23人増の128人。再任用は原則、退職時の2級下の職での任用になるという。医療・介護データを分析し必要な施策を実施するための任期付職員1人を保健福祉部に配置する。

組織改編は、業務改善や職員の働き方改革を積極的に推進するため総務部ワークライフバランス推進室を課に格上げする。持続可能なまちづくりを推進するため政策イノベーション部企画経営課に持続可能都市戦略室を新設する。

ごみ清掃工場のクリーンセンター、リサイクルセンターと、し尿処理施設などを包含し管理するサステナスクエア管理課を生活環境部に設置する。廃棄物対策課を環境衛生課に変更する。メモリアルホールの担当部署を市民部から生活環境部に移管する。

公共施設の整備を一元的に行うため建設部営繕課を公共施設整備課に変更する。4月以降、指定管理者から市直営に移行する茎崎こもれび六斗の森の運営は経済部観光推進課に出先機関を置く。

◇人事異動(4月1日付)、カッコ内は現職、敬称略

【部長級】
▽市長公室長・再任用(同)松本玲子
▽都市計画部長(農業委員会事務部局長)中根祐一
▽生活環境部長(総務部主任参事兼選挙管理委員会事務部局長)風見昌幸
▽議会事務局長(同次長)川崎誠

【次長級】
▽市長公室次長兼広報監兼秘書課長(同次長兼広報監)杉山晃
▽市民部次長・市民活動課、市民窓口課担当(同次長)山田憲男
▽市民部次長兼地区相談課長・地区相談課、スポーツ振興課、国体推進課、文化芸術課担当(文化芸術課長)星野雄司
▽市民部地区担当監(教育局大穂学校給食センター所長)松崎若美
▽市民部地区担当監兼大穂相談センター所長(建設部防犯交通安全課長)白井稔
▽市民部地区担当監兼桜相談センター所長(同担当監・桜地区担当)松浦裕之
▽市民部地区担当監兼筑波相談センター所長(同担当監・谷田部区担当)木村徳一
▽市民部地区担当監兼茎崎相談センター所長(経済部土地改良課長)秋葉義美
▽保健福祉部次長・社会福祉課、障害福祉課担当(同次長・社会福祉課、障害福祉課、高齢福祉課担当)津野義章
▽保健福祉部次長・高齢福祉課、介護保険課、医療年金課、地域包括支援課担当(同次長・国民健康保険課、医療年金課、介護保険課、地域包括支援課、健康増進課担当)小室伸一
▽保健福祉部次長兼健康増進課長・国民健康保険課、健康増進課担当(健康増進課長)吉原衛
▽保健福祉部社会福祉推進監・社会福祉法人つくば市社会福祉協議会派遣(同主任参事・同派遣)稲葉光正
▽こども部次長兼幼児保育課長(同次長)松本茂
▽こども部こども政策監・再任用(同)飯泉省三
▽経済部次長・産業振興課、観光推進課担当(同次長・農業政策課、産業振興課担当)永田悦男
▽経済部次長・農業政策課、土地改良課担当(観光推進課長)大橋一彦
▽都市計画部次長・公有地利活用推進課、建築指導課、開発指導課担当(同次長兼公有地利活用推進課長)稲葉清隆
▽都市計画部次長・総合交通政策課担当(同次長兼同課長)中澤正登
▽建設部建設政策監・再任用(同)栗原正治
▽生活環境部次長・環境政策課、環境保全課、環境衛生課、サステナスクエア管理課担当(同次長・環境政策課、環境保全課、廃棄物対策課担当)谷内俊昭
▽中央図書館長(同副館長)柴原徹
▽議会事務局次長(生活環境部水道業務課長)中泉治
▽選挙管理委員会事務局長(監査委員事務部局長)石田慎二
▽監査委員事務局長(同副局長)北島浩成
▽農業委員会事務局長(市民部地区相談課長)野澤政章
▽消防本部消防次長・消防監、消防署担当(同予防広報課長・消防司令長)五月女謙次
▽消防本部主任参事兼南消防署長・消防監(消防総務課長・消防司令長)東郷道明
▽消防本部主任参事兼北消防署長・消防監(中央消防署参事兼桜分署長・消防司令長)沼尻博

【課長級】
▽市長公室広報戦略課長兼副広報監(政策イノベーション部企画経営課長補佐)勝村英樹
▽総務部ワークライフバランス推進課長(財務部納税課長兼徴税管理監)飯島正志
▽財務部管財課長(管財課公共施設マネジメント推進室長)新関清美
▽財務部納税課長兼徴税管理監(総務部総務課長補佐)奥沢篤
▽市民部副地区担当監・筑波地区担当・再任用(都市計画部長)長島芳行
▽市民部副地区担当監兼谷田部相談センター所長・再任用(議会事務局長)新井隆男
▽市民部副地区担当監・谷田部地区担当(市民窓口課長)日下由美子
▽市民部副地区担当監・桜地区担当(生活環境部下水道整備課長)小神野真
▽市民部市民活動課長(同課地域改善対策室長)大木茂樹
▽市民部市民窓口課長(市長公室広報戦略課長兼副広報監)中川伸一
▽市民部スポーツ振興課長(総務部人事課ワークライフバランス推進室長)伊藤智治
▽市民部文化芸術課長(総務部総務課長補佐)荒澤浩俊
▽保健福祉部参事、医療・介護連携推進担当(任期付短時間)黒田直明
▽経済部産業振興課長(市長公室秘書課長)久保田靖彦
▽経済部土地改良課長(産業振興課長)小川英男
▽経済部観光推進課長(教育委員会事務部局)一瀬剛
▽都市計画部公有地利活用推進課長(都市計画課沿線開発整備室長)岡田克己
▽都市計画部市街地振興課都市政策調整監・一般財団法人つくば都市交通センター派遣研修・再任用(生活環境部長)長卓良
▽都市計画部総合交通政策課長(議会事務部局)伊藤和浩
▽建設部道路整備課長(同課長補佐)塚田孝
▽建設部公共施設整備課長(財務部管財課長)坂田博之
▽建設部住宅政策課長(都市計画部市街地振興課長補佐)田中聖史
▽建設部防犯交通安全課長(消防本部地域消防課長)杉山一彦
▽生活環境部環境衛生課長(廃棄物対策課長補佐)植木亨
▽生活環境部サステナスクエア管理課長(廃棄物対策課長)星野和也
▽生活環境部水道業務課長(同課長補佐)坂入善晴
▽生活環境部下水道整備課長(建設部道路整備課長)野原浩司
▽教育局教育施設課長(建設部営繕課長)飯泉法男
▽教育局健康教育課長(市民部スポーツ振興課長)池畑浩
▽教育局大穂学校給食センター所長(健康教育課長兼茎崎学校給食センター所長)山口康弘
▽教育局茎崎学校給食センター所長(生活環境部クリーンセンター所長)石塚英樹
▽教育局文化財課長(生涯学習推進課長補佐兼係長)美野本玲子
▽教育局中央図書館副館長(こども部幼児保育課長)松浦智恵子
▽議会事務局議会総務課長(同課長補佐)渡辺寛明
▽消防本部消防指令課長(同課長補佐)竹内信之
▽消防本部警防課長(同課長補佐兼救急係長)古山正則
▽消防本部消防総務課長(警防課長補佐兼係長)山田勝
▽消防本部地域消防課長(教育局教育施設課長)秋葉芳行
▽消防本部予防広報課長(消防指令課長補佐兼指令第三係長)大山徳男
▽中央消防署参事兼副署長(同参事兼筑波分署長)堀江道夫
▽中央消防署参事兼桜分署長(同参事兼茎崎分署長)野口勝

◇退職(31日付け)

【部長級】
▽市長公室長・松本玲子
▽都市計画部長・長島芳行
▽生活環境部長・長卓良
▽議会事務局長・新井隆男

【次長級】
▽市民部地区担当監兼筑波相談センター所長・澤邉義光
▽市民部地区担当監兼大穂相談センター所長・中野実
▽市民部地区担当監兼桜相談センター所長・國府田修
▽市民部地区担当監兼谷田部相談センター所長・小神野洋一
▽市民部地区担当監兼茎崎相談センター所長・宮本任
▽市民部主任参事兼市民活動課長・東郷公咲
▽経済部次長・柴原利継
▽教育局主任参事兼文化財課長兼桜歴史民俗資料館長・山本賢一郎
▽教育局中央図書館長・椙山久美子
▽消防本部消防次長・宇津野公夫
▽消防本部主任参事兼消防指令課長・吉場道雄
▽消防本部主任参事兼南消防署長・北澤光二
▽消防本部主任参事兼北消防署長・神立孝一

【課長級】
▽市民部市民窓口課参事兼谷田部窓口センター所長・池辺洋一
▽市民部市民窓口課参事兼桜窓口センター所長・中野賢一
▽市民部市民窓口課参事兼茎崎窓口センター所長・森田隆男
▽市民部つくばメモリアルホール斎場長・大野泰宏
▽経済部観光推進課参事兼筑波ふれあいの里所長・菊地秀之
▽建設部住宅政策課長・猪野泰弘
▽教育局中央図書館副館長・小野村薫
▽消防本部警防課長・土田仁一
▽中央消防署参事兼副署長・染谷隆
▽中央消防署参事兼豊里分署長・野口守

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2億円超の復旧費用めぐり 運営管理事業者がつくば市を提訴 ごみ焼却施設

市は反訴へ つくば市のごみ焼却施設、つくばサステナスクエア(同市水守)で2022年12月、高圧線から電気を受け取り低圧に変換する受電設備が故障し、施設に電気が供給できなくなった事故をめぐって、当時、市から施設全体の包括的運営管理業務を受託していた事業者が昨年末、同市を相手取って、受電設備の復旧費用約2億2300万円の支払いを求める訴えを東京地裁に起こしていたことが分かった。 これに対し市は反訴する方針で、25日開かれる同市議会で議決されれば、事業者を相手取って損害賠償請求を起こす。 つくば市を訴えたのは、NKKS・NSES・KSE特定業務共同企業体(代表・日本管財環境サービス、東京都港区)。当時、市のごみ焼却施設、リサイクルセンターなどの運転管理、補修、一部機器の更新工事を含めた維持管理業務を請け負っていた。当時2020年度から24年度まで5年間の委託料は約50億円弱。 事故は2022年12月12日に発生した(22年12月23日付)。受電設備が故障し、12日から約1週間、ごみ焼却炉が停止し、市内から収集された可燃ごみは、一時的にごみをためる「ごみピット」にためられた。 12月18日に仮設の発電機を設置し、19日からごみ焼却炉の運転を一部再開。翌23年1月12日に復旧した。 ごみの量が増える年末年始に重なったこともあって、この間、市は可燃ごみの一部の処理を外部に委託した。焼却炉の停止により蒸気の供給を停止したことから、隣接のスポーツ施設「つくばウエルネスパーク」の温水プールと温浴施設の営業も一時停止。さらにごみを燃やして発電できなくなったため市の公共施設への電気の供給や売電もストップした。 復旧後の2023年8月、復旧にあたった事業者から市に対し、復旧費用の支払い請求があった。双方で話し合いが行われたが折り合いがつかず、24年7月からは双方とも弁護士を付けて示談交渉が行われが折り合わず、昨年12月26日、事業者側が市を提訴するに至った。 受電設備が故障した原因をめぐって、市が事業者と締結した包括的運営管理委託業務の範囲内に復旧工事が含まれるか否かで見解が分かれているとみられる。 故障の原因について市サステナスクエア管理課は「今後の裁判に影響する恐れがあるので(言及を)控えたい」としている。 市が提起する反訴については、ごみ焼却炉が停止したことにより市が負担した▽可燃ごみ処理の外部委託費約740万円▽ウエルネスパークのプールと温浴施設が休業したことに伴う指定管理者への運営補償金約250万円など計約1090万円を事業者に損害賠償請求する方針だ。(鈴木宏子)

私を見て《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》1

【コラム・3年 神谷洞窟】散歩が好きだ。特に深夜に歩く。できるだけ、知らない人のいない時間がいい。もちろん、知っている人も。むしろ知っている人が、いない方が好ましい。人と関わることは嫌いだ。こう言うと心の優しい人は、「嫌い」という表現は言葉が強いから、「苦手」と言い換えたらどうか、と感じるかもしれないが、私は決して人付き合いが苦手ではない。これは意地を張っているのではない、むしろ苦手ではないからこそ、嫌いなのかもしれない。というのも、高校に入学してから周りに合わせ、大きな声で笑い、それなりの返事をするのが圧倒的に上手くなったからだ(勘違いではないと信じたい)。それは、嘘(うそ)をつくことが上手くなった、という風に言い換えることもできる。このように、私たちを取り巻く世界では、対人関係の場において特に、嘘をつくことが必要不可欠となっている。しかし嘘をつくことで結ばれる関係なんて、それ自体嘘でしかない。なぜなら、嘘をつくことで他者と結びついている私は、私ではなく、私が演出した「私という虚像」でしかないからだ。 散歩しているとき、いつも自分のことを考えている。このように言うと「げーっ、自分大好きかよ」と思われてしまうかもしれないが、事実なので仕方がない。想像の中で、私はテレビにインタビューを受けている。え?好きな画家ですか?ゴーギャンです(笑)彼の描く女性には生命力が……とまあ、このようなことを長ったらしく語るのである。余談だが、最近見た映画の中で、若いうちに他者と深い関係を築くことができず、テレビを見ることだけが生きがいの老婆が、痩せてテレビに出演するために麻薬漬けになっていくという節があった。もしかしたら、私は出演料を請求しても許されるかもしれない。若いうち、他者に本当の自分を表明することができなかった者、そんな自分を受け入れられなかった者は、理想(それは、妄想と言い換えることもできる)の世界に閉じこもるしかないのである。 このように、他者と関わることが嫌いな私は、他者を前提にして生きている。これは不思議なことだ。人付き合いなんて嫌いだと声高に宣言している人間が、毎夜他者に、自分について興味を持たれる妄想をしている。そこには大きな矛盾があるように思われる。思えばずっと、私は他者と関わり続けてきた。それは、嘘をつくことが嫌いなために他者と関わることを嫌ってきた私が、他者に嘘をつき続けてきたが故に、他者に本当の自分を表明することに取りつかれてしまったからである。 私には趣味が二つある。そのうちの一つは「小説を書くこと」で、これは読み手がいることを前提とした行為である。もちろん書いた小説を絶対に見られたくないという人も中にはいるのだろうが、私の場合はそれ用のサイトに投稿までしているのだから決して言い逃れはできない。残りの一つは「哲学」だ。私の中で哲学は、他者の存在、特に「他者に見られること」と深く結びついている、こちらのコラムに寄稿させていただいていることからも分かる通り。また、私が高校で所属しており、大学で哲学を志すきっかけともなった哲学部では、メーンの活動として哲学カフェが行われている。何人かで集まって、一つの議題について徹底的に思考を練り上げるのである。そこでは私は主にたくさん発言をするタイプのファシリテーター(司会)を務めていた。ファシリテーターは人によってかなり個性が出る。もちろんあまり自分の意見は言わず、話の流れの整理にとどまって活躍される人もいる。しかし私はとにかく自分を語った。表面的な部分から、それこそ、私を構成する核に至るまで。ここからも私がいかに自分を他者に開示することに取りつかれているかが分かるだろう。思えば、私はこれまでずっと他者に本当の自分をわかってもらいたかったのだ。他者と本質的な関係性を築きたいと思うのに、本当の自分が否定されたら耐えられない。だから嘘をつくしかない。しかしそれでは他者と深い関係を作ることはできない。いつだって、これらの矛盾の出発点にあるのは、私の中の「本当の私を理解してほしい」という、ただそれだけの話なのだ。 哲学カフェの中で、私は特に「私を逐一監視している、私の意識の中の私」についてたびたび発言してきた。これはどういうことかと言うと、私が何か少しでも非道徳的と判断され得る行動をした際に、私の意識の中に存在している私が、一斉に私に向かって石を投げ始めるのである。つまるところ、私は、「清く正しくいなくてはならない」という私の意識に縛られているのだ。 思えば、どうして私はこのような意識を構築するに至ったのだろう。 ジークムント・フロイトという精神分析者がいる。彼は社会通念上の道徳が規範意識として内面化されたものを「超自我」と呼んだ。つまり、私は、この超自我が一般より強く機能しているのだ。そこにはきっと、他者からの視線が関係している。私は善人ではない。私は子どもと小動物が好きではない。私は、たとえ道端で傷ついて泣いている人がいても、私には関係ないからどうだっていいと思う。家族でさえ、突き詰めていけば私にとっては他人だ。しかし、他者は私に「善人」でいることを期待する。そして、そんな他者の視線はいつの間にか「他者」という存在を超え、私の中に一定の規範意識を構築するに至った……それに、それはもしかしたら他者ではなくて、初めから、他者になりすました私だったのかもしれない。これは、私自身が持っている「理想の私」という虚像を実現するために、他者とは別に現実の私を監視している私がいるということだ。昔から変わっていると言われることの多かった私は、自然と自分に「常識に反してはならない」という枷(かせ)を強制するようになった。人間のふりをしている、という風に言い換えてもいい。「普通の人はこうするだろう」、「普通の人はああするだろう」。私が世間一般から逸脱しないように本当の私を封じ込めているのは、もしかしたら初めから他者などではなく、私に他ならなかったのかもしれない。 とにかく― このように、私という意識は私ではなく、他者として機能することがある。私にとって、私は私であって、私ではない。 他者が求める私は決して私ではない。他者は私の全てを知っているわけではないからだ。同じように、私が求める私も決して私ではない。私から、私に対する先入観を取り除くことはできないからだ。私は、「私とはこういう存在である」という意識を抜きにして私と向き合うことはできない。私の中の「普通でいなくてはならない」という枷は、もはや私の無意識の部分までをも侵食してしまっているからだ。それでは、私とは一体誰なのか。他でもない私をメタ的(高次的)に眺め、今このコラムを執筆しているはずのこの私は、一体誰なのか。この疑問について考えていくことこそが、他者の視線、ひいては自分の視線と上手く関わることのできない私にとって、大きな前進をもたらす契機となるような気がする。 この文章が、私と同じように、他者に本当の自分を開示できない寂しさと、行き過ぎた超自我を抱えている方にとって、何かしらになることを期待している。