【ノベル・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて。
友との盟約を優先し、長州藩江戸桜田藩邸を脱藩してきた吉田大次郎(のち松陰と名乗る)は、水戸へのメインルート水戸街道を避け水海道へ迂回、ここに宿をとる。翌日は、行く手にそびえたつ筑波山をめざす。道に迷いながらも北条からつくば道をたどり、筑波神社下の筑波宿へ投宿する。
当時筑波宿には、筑波山神社参拝の精進落とし、飯盛女をおく旅籠(はたご)が軒をつらねていた。宿にあがった大次郎にその晩、何があったのか、それは、筑波山にすみつく鬼のみぞ知る謎。大次郎は、血気さかんな二十二歳。
翌日、脱藩の身の上を忘れ、晴れやかに筑波山男体女体の頂を踏む。筑波山からの展望の様子を、この旅を記した「東北遊日記」へ興奮気味の詩でかざっている。昨晩、よほどの欣快事があったのか。
筑波山からは足取り軽く真壁へくだり、さらに足をのばし笠間へはいる。
閑話休題。ずいぶん健脚です。江戸から松戸。松戸から水海道。水海道から筑波宿。筑波宿から筑波山に登り、真壁を経て笠間。すべて、徒歩です。
そして翌日、待望の水戸へ。水戸では、水戸学・尊攘の師たちと会える。この面談こそ、脱藩してまで出立した今回の遊学の本旨だった。
水戸にはいり三日目、水戸学の権威、当時、「新論」などの著書により全国の志士の崇敬を集めていた会澤正志斎との面談が、ようやくにしてかなう。会澤正志斎は、水戸藩藩校弘道館館長。念願の面談のはず、だったが。
「我に軽信の癖あり」
日記に、面談の感想が、いっさい見当たらない。さらに日を変えて面談をかさねるが、語りあったはずの「学」について、やはり一言も残さない。そして数回目の面談後の「東北遊日記」。
「十七日 晴 会澤を訪(と)ふ。会澤を訪ふこと数次なるに卒(おおむ)ね酒を設く。水府(水戸藩)の風、他邦の人に接するに款待(かんたい)甚だ渥(あつ)く、勧然として欣(よろこ)びを交え、心胸を吐露して隠匿する所なし。…」
賢学の師に会った大次郎の感想はつねに、「何を学んだか」ではなく、「どのような態度、どのように応接してくれたか」の、出会いの印象に終始する。その後、「東北遊日記」に会澤は登場しない。「相性」があわなかったか。
松陰はのちに、「我に軽信の癖あり」と自省するが、「それで、かまわないではないか」という自尊心も透けてみえる。出会いの応接印象により、直情的に感激し信用してしまう少年ほどの楽天家。それだけに、切り捨ても早い。それが松陰流の交友だった。
会澤正志斎に対する松陰の後日評。
「紙上の空言、書生の誇る所、烈士の恥(はじ)る所なり」
あなたは所詮(しょせん)、紙上の空論家、われわれ烈士は、それを恥るものです。松陰は大見得をきって会澤と訣別(けつべつ)するが、「軽信」の誹(そし)りは本人の認めるとおりだ。(作家)
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