【コラム・沼尻正芳】いにしえの頃より筑波山と苦楽をともにしてきた人々、山に思いを寄せて育ってきた子どもたちがたくさんいたことだろう。私もそうだった。楽しいときには筑波山がはっきりと見え、悲しいときや苦しいときにはかすんで見えた。筑波山は私を励ましたり慰めたりしてくれた。

筑波山までは私の家から約30㌔ある。田畑や山林のはるか彼方に見える。筑波山に初めて登ったのは、中学校卒業後の休日だった。数人の友人と自転車で出かけることになった。ペダルをこぎながら、だんだんと近づいてくる筑波山に心を踊らせていたことを覚えている。山が目の前に現れたとき、その姿に圧倒された。「私が筑波山だ」と山が堂々と主張しているように感じた。そのとき、「山そのものを、肖像としての筑波山を描いてみたい」と思った。

退職後、繰り返し筑波山に通った。軽トラの荷台にイーゼルを立ててスケッチをした。筑波山の肖像は思いのほか難しかった。山肌をどう表現したらよいのか。木々が生い茂る霊峰。木を見て山を見ず、山を見て木を見ず、全体と部分のバランスがどうもしっくりこない。男体、女体、二峰並立の筑波山の山頂に目を描き、中腹の影を口にして四六のガマと思ったり、梅林を囲む木々の塊を霞ケ浦の白鳥と連想したり、暗中模索や妄想、悪戦苦闘を繰り返すことになった。

山の構造をつかまえなければ徒労に終わってしまう。山に陰影のつく日没前や日の出前に筑波山を観察することにした。横からの光でできる明暗が山の微妙な起伏や構造を教えてくれた。そのとき、「私を絵にしていいよ」と筑波山が心を開いてくれたように思えた。

田園と麓の家並みと筑波山と空

2012年、油絵30号2点の筑波山をなんとか仕上げた。田園と麓の家並みと筑波山と空だけの単純な構図。それをある公募展に出品したら「新人賞」をいただいた。うれしい反面、ただ精一杯の表現で、まだまだ未熟な作品だった。

その後、四季折々の筑波山を数点描いたが、最初に描いた筑波山がいつも気になっていた。それから、それを飾っては修正し、飾っては描くようになった。その様子を見ていた妻に「もう別の絵を描いたら」とたびたび言われた。「筑波山の肖像への思いを何とかものにしたい。愛着のある1点をとことん描くことも有りだろう。」と毎年描き直してきた。

すると年ごとにだんだんと絵のマチエール(肌合い)が現れ、筑波山も田園も家並みも空や雲も、表現が少しずつこなれてきているように感じた。様々なものを描くことも量を描くことも必要だと思うが、1点の絵を熟成させ、時間をかけて描くことも為(ため)になるものだと思う。

ふるさとの山であり、信仰の山でもある筑波山。春夏秋冬と表情を変える筑波山の肖像を繰り返し描き続けてきた。これからは、山が姿を変える様々な方角から筑波山の肖像を、また、筑波山が遠くに見える風景も描いてみたい。(画家)