【コラム・栗原亮】J・ヴィクター・コシュマンの「水戸イデオロギー」(ぺりかん社、1998年)によれば、天狗党の日光や京都への長征を「一種の巡礼」と呼び、この行動を始源への回帰であるとしている。この行動が復古の現状批判的な可能性を呼び起こし、その時代に大きな影響を与えていったという見方は注目してよい。
とりわけ、京都への巡礼を元の場所に連れ戻していく運動として、つまり永遠に変わることのない永続性を持つ天皇の存在(シンボル)を浮かび上がらせていった事実を天狗党の長征から読み取ろうとする見解は、「世界宗教史 全8巻」(ちくま文庫、2000年)の著者、ミルチア・エリアーデの宗教論を踏まえた興味ある議論である。
水戸学的偏狭性は決して幕末で終わったわけではなく、幕末の京都での佐久間象山の暗殺、さらに維新後も信仰的攘夷は長州や西国の諸藩でもくすぶり続けた。長州藩士による大村益次郎の暗殺、久留米藩尊攘派の騒動などで猛威を振るった。
そうしたものを克服するには、明治政府も大きな代償を支払っている。堺事件や神戸事件などの外国人殺傷事件は、そうした過渡期に起きた信仰的攘夷の表現と考えられる。明治維新後の日本近代史の中で攘夷の問題がなくなったわけではない。
息を吹き返す? 排外主義と国家主義
攘夷という言葉は使われなくなるが、維新後に開国はアジアに自己の力を拡大する「膨張主義」に転化していったし、アジア主義も日本がアジア大陸に進出する足掛かりとして自己に都合のいいように解釈され、太平洋戦争前夜にはアジアを解放するという「大東亜共栄圏」の名の下に侵略が容認されていったのである。
太平洋戦争総力戦体制下では欧米の科学技術思想が否定され、「鬼畜米英」の名の下に極端な精神主義が生まれ、くすぶっていた対外的な攘夷の思想が復活し、1941年12月8日の真珠湾攻撃の日にはその攘夷思想が爆発し、頂点に達したのである。
戦後は打って変わって欧米思想や風俗を受け入れたが、自国中心主義や民族主義から本当に自由になったのか。排外主義と国家主義はこれからも無縁ではなく、何かの機会には息を吹き返す可能性はある。その意味で、水戸学的偏狭性の問題が終わったわけではなく、法と権利に基づく自由を取り戻す課題は我々の運動にかかっている。(郷土史家)