早大政経・土屋ゼミ・インタビュー12
アルバイト原稿
藤本:1998年、大阪支社に行かれました。
坂本:大阪赴任中、20世紀から21世紀に移るミレニアムがあり、配信システム=コンピューターの誤作動が起きたらどうするか―これが一つの仕事でした。幸い何事もありませんでしたが。
大阪では支社次長として、経済部、商品部、水産部、社会部、内政部、運動部、写真部などを管理するのが仕事でした。思い出深いのは、和歌山カレー事件ですね。週刊誌やテレビは大騒ぎでした。
藤本:大阪支社の前、解説委員をしていますが。
坂本:新聞社でいうと論説委員ですね。時事は論説記事を配信していないこともあり、論説委員と呼ばないで、解説委員という職名でした。当時、週刊誌「世界週報」「週刊時事」とか、経済関係のニュースレターを発行していましたから、その執筆がメインです。私は、経済、特に国際経済を担当しました。
各社の記者もそうですが、外部の雑誌などからも注文が来ます。比較的時間に余裕がありましたから、週刊誌や月刊誌には随分書きました。いわゆるアル(バイト)ゲン(稿)です。これは楽しかったですね、原稿料も入って来るし。(笑)
通信社→地域紙
藤本:2003年、常陽新聞へ移りました。
坂本:時事を辞め、郷里の土浦に本社があった「常陽新聞」の社長になりました。茨城県には水戸市本社の「茨城新聞」と土浦市本社の「常陽新聞」がありましたが、茨城は県紙、常陽は県南地域紙です。
常陽は1948年創刊ですから、土浦が「県南の商都」と言われたころは経営も順調だったようです。ところが、若い人の新聞離れ、土浦の地盤沈下もあり、苦戦していました。
地方銀行の役員や県庁の幹部から、辞める半年前、地元に戻り社長をやってくれないかという話がありました。いろいろ考えた末、56歳―昔はこの歳が定年でした―になったことでもあり、別の分野、ニュースの卸売り=通信社から、ニュースの小売り=新聞社に転身するのも面白いかと引き受けました。(笑)
ネガティブ要因
実は辞める前の1~2年、経営の方向について私の考えが受け入れられず、悶々としていました。ひとつは、日銀キャップ、経済部デスク、証券部長、経済部長のとき手掛けた電子メディア―金融情報サービスの「MAIN」と証券情報サービスの「PRIME」―のシステム開発体制についてです。
システム更新の際、経営陣は外部開発会社に投げる―アウトソーシングですね―方針を打ち出しました。これに対し私は、通信社のシステムは独自性が強く、外部に任せるには無理があると、自社主導を主張しました。
結局、外のシステム会社に丸投げされましたが、開発に時間がかかり過ぎ、新モデルを出すタイミングを失っただけでなく、投資額も危機水準まで膨らみ、この選択は失敗しました。結果が分かったのは、私が辞めたあとでしたが。(笑)
もうひとつは、通信社としてインターネットをどう使うか―ネット戦略についてです。大阪から戻ったあと、ネットを使ったメディア企画の新部門を任されました。そこで、紙を持たない通信社にとってネットは好機と考え、既存サービス―NTTの専用回線を使った電子サービス―を、ネット上に構築するプランを立てました。
しかし、歴史ある、既存サービス体系を重視する経営陣は反対、ネット化構想だけでなく、組織―メディア事業本部と言いました―も潰されました。こういったこともあり、時事の居心地が悪くなっていたわけです。
システム開発とネット展開の方向性をめぐる、経営陣との衝突。ネガティブ要因ですが、これらも時事を辞め、ローカル紙に移った理由です。(続く)
(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)
【NEWSつくば理事長・坂本栄】