【コラム・栗原亮】「後期水戸学」から出発した天狗党の乱が四分五裂になり、自滅していったことをもって、戦後歴史学では天狗党の評価は一般的には高くない。安政の大獄までは、少なくとも水戸藩は、全国の尊攘運動のリーダーとしての役割を十分にもっていたという評価である。

文久3年(1863)、長州藩尊攘派が朝廷を支配し、天下に号令を下すなど、長州藩尊攘派の力は朝廷を制するに至った。8月18日の政変で長州藩は朝敵となり、一時は薩摩藩と対立したが、慶応2年(1866)に薩長同盟を結び、維新回天の事業を成功させたこと、長州藩尊攘派が「攘夷」から「開国」へ転じたことをもって、戦後歴史学は長州藩尊攘派の動きを高く評価している。

これに対して、水戸藩では天狗党の蜂起を契機にして市川三左衛門らの保守門閥派が権力を握り、敦賀で天狗党が処刑などで処分されたことにより、水戸藩尊攘派は維新回天の事業を遂行することができなかったというのが一般的な見方である。水戸藩尊攘派は、歴史の流れから見れば、歴史に乗り遅れた古い尊攘派であるとする見方は正しいようにも見えるが、はたしてそういう見方でよいのだろうか。

水戸藩尊攘派が極めて原理主義的な考えを持っていたことは、確実である。市井三郎氏の「『明治維新』の哲学」(講談社現代新書、1967年)によれば、水戸藩尊攘派は「信仰的攘夷」であったとしている。確かに水戸尊攘派は敬幕的であり、討幕でなかったことは疑いない。

市井氏は、水戸学は新体制を作り出す「自覚的攘夷」には至らなかったと述べている。しかし歴史というものは単純ではなく、「信仰的攘夷」と「自覚的攘夷」の関係は、行きつ戻りつのジグザク行進(関係)であって、自覚的攘夷は信仰的攘夷を含みつつ展開していったのである。

市井氏のように、水戸学の偏狭性を指摘するのは間違いではないが、水戸の「地政学的」位置からいって、幕府を無視して水戸学がありえなかったように、長州藩尊攘派がその偏狭性を克服しえたのは、江戸から離れていたことや、四国連合艦隊との戦争で実際に攘夷を敢行することによって、実践の中で自覚的攘夷(政治性)を高めていったのである。

その意味で、後期水戸学のみが袋小路に陥っていったのは、何も水戸学に帰せられるばかりでなく、あらゆる哲学や学問にも言えることであり、常に具体的な状況の中で思考をすることを忘れると、イデオロギーと化してしまい、スターリン主義のような怪物に転化する場合もあるのである。(郷土史家)