月曜日, 7月 27, 2026
ホーム土浦【直売所めぐり】1 地産野菜で夏バテ知らず JA土浦さんふれ土浦店

【直売所めぐり】1 地産野菜で夏バテ知らず JA土浦さんふれ土浦店

【田中めぐみ】地元の直売所巡りが好きだ。記者は四国の出身で、子どもの頃、右も左も青々とした田んぼの道を行くと、野菜の無人販売所をあちらこちらに見つけることができた。何でもあるスーパーとは違い、せっかく買いに行ったのに棚には何一つ置いていない時もある。日ごとに微妙に変わる品揃えにも興味津々だった。大人になっても直売所に行くとなぜかあの頃のわくわくした気持ちがよみがえる。土浦、つくばの直売所をめぐり、茨城の地産野菜の魅力をお勧めの食べ方などを交えて紹介する。

つくばセンターから車で土浦学園線を東に進み10分弱。JA土浦農産物直売所サンフレッシュ土浦(土浦市粕毛)の朝の店内にはみずみずしい夏野菜が色とりどりに並ぶ。計6店舗あるJA土浦の直売所第1号店。アットホームな雰囲気で、ベテラン店員に食べ方を聞きながら買い物できるのも魅力だ。

この時期、近隣の生産者およそ20人が丹精込めて栽培し、収穫したばかりの夏野菜約15種類のほか、JA女性部のメンバー約15人が手作りしたみそなどの加工品が並んでいる。特におすすめの夏野菜がカボチャ、枝豆、トマト、トウモロコシなどだという。

記者が作ったかぼちゃの煮物

女性客に人気なのが「ほっこりえびすかぼちゃ」だ。ビタミン、ミネラルが豊富で、ほっこりとして風味豊かな甘さがある。店員の酒井洋子さんのお勧めはかぼちゃの本来の味を楽しめる煮物。一口大に切ったあと砂糖をまぶし、すこし置くとかぼちゃの水分が出てくる。それに顆粒だしをパラパラ、酒ひと回し、みりんひと回し、塩をお好みで入れ、蓋をしてとろ火で煮る。記者も作ってみたところ、まったく水を入れなくてもかぼちゃ自体の水分で煮上がり、出来上がりはホックホク。もちろん、しっとりがお好みの場合は水を加えて煮てもよい。できあがった煮物を冷蔵庫で冷やしていただくのも美味だ。同店では4分の1カットも売っているので少しだけ食べたい時にも買いやすい。

枝豆も今が旬だ。特に「おつな姫」は香りのよい品種で8月半ばくらいまで出回るという。枝豆はタンパク質や鉄分が豊富なので、疲労回復にも最適だ。さやの両端をハサミでカットし、塩でもみ4~5分ゆでて、ざるにあける。ゆでたての枝豆の芳醇な香りと甘み、塩気に手が止まらない。もう2袋は買っておくべきだったと後悔した。ビールのお供にはもちろん、子どものおやつにもいい。

同店のトマトは太陽の光をたっぷり浴びて育った露地栽培だ。熟してからもぎ取るので、収穫後に追熟した普通のトマトよりも栄養分が豊富なのが特徴だ。記者のお勧めは、カットしたトマトにモッツァレラチーズを添え、オリーブオイルをかけて食べるカプレーゼ。甘み、旨味が強いトマトなので、シンプルな味付けで食べるのがいい。同じ品種でも生産者によって味が違うそうだ。ラベルに表示されている名前を見て食べ比べ、お気に入りの生産者さんを見つけて「生産者買い」できるのも直売所ならではの醍醐味だ。

トウモロコシも今が旬。この日はクリスピーホワイトとゴールドラッシュが陳列されていた。午後に行くと品切れになることもあるという。旬のトウモロコシには缶詰や冷凍のコーンにはないフレッシュなおいしさがある。弾けるみずみずしさと風味の良い甘さが特徴。皮付きのままラップし、レンジで1~2分チンするだけですぐに食べられる。人目を気にせず、家で豪快にかぶりつきたい。

お盆に帰省する際の手土産を聞くと、「れんこん黒糖バウムクーヘン」と店長の菊田豊さん。土浦の特産品であるれんこんのパウダーを使っていて珍しい。れんこんもバウムクーヘンも縁起が良く、贈り物に最適だ。カットされた個包装のものも売っているので、自宅用のちょっとしたおやつにもいい。

サンフレッシュ土浦店
住所▽土浦市粕毛705-2
電話▽029-821-4826
駐車台数▽15台(予備駐車場有)
営業時間▽午前9時30~午後6時(4~9月)、午前9時30分~午後5時30分(10~3月)
定休日▽無休(ただしお盆・年末年始は休み)

かぼちゃ(左上)トマト(左下)枝豆(右上)とうもろこし(右下)

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