月曜日, 7月 27, 2026
ホームスポーツ【高校野球茨城’18】土浦一と土浦三、地元勢2校が好調なスタート

【高校野球茨城’18】土浦一と土浦三、地元勢2校が好調なスタート

【池田充雄】第100回全国高校野球選手権茨城大会は9日、大会3日目を迎え、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦に地元勢の土浦一と土浦三が登場した。2校とも初戦を制し、順調なすべり出しを迎えた。

土浦一、中軸の長打攻勢で神栖に大勝

【土浦一-神栖】4回を無安打で締めた土浦一の先発・先崎投手

第1試合は土浦一が神栖に11-0で5回コールド勝ち。初回は三番・酒井省吾の三塁線を抜く三塁打で先制し、五番・佐野翔の中犠飛、六番・先崎大翔の中前打など打者一巡の猛攻。2回は二番・栗原朋久から始まり酒井、四番・阿由葉光まで3者連続の三塁打。4回は一番・矢追駿介の2点三塁打など、長打が目立つ試合となった。

主砲でこの日3安打2打点の阿由葉は「最近は打線の状態が良く、中軸で連続長打が出せている。四番としては自分が相手の得意な球を打ち崩し、チームを楽にしたいと考えている。次戦も相手の調子を見てフルスイングしていきたい」と意気込みを見せた。

この日先発の先崎大翔は、4回を投げて無安打・3奪三振。本来は中継ぎ投手だがブルペンでの好調さを買われ、大事な初戦を任された。「直球に伸びがあり、アウトローに制球できた。まっすぐで三振が取れたことは自信になった」と、良い感触を次戦につなげられそうだ。

藤田大輔監督は「去年は力のある子をそろえながら、近年では久々の1回戦負けを喫してしまった。その分を今日の勝利で取り返すことができた。これで硬さも取れ、次の試合にも思い切って臨める」と期待を語った。次戦は13日、日立市民球場でBシードの日立一と対戦する。

3回表、阿由葉がこの日2本目のヒットをレフトへ放つ

 

土浦三、逆転され打線が爆発

この試合を先発完投した土浦三の濱崎投手

第2試合は土浦三が7-3で水戸農とのシーソーゲームを制した。

前半は投手戦で、土浦三の先発・濱崎鉄平は「まっすぐが調子よく、初回から飛ばした」と、137㎞前後の速球を主体に、5回まで2安打・10奪三振の快投。一方、水戸農の先発・益子竜一も、球威では濱崎に劣るものの、5安打・7奪三振と要所を締める。

試合が動いたのは6回。土浦三は2死二塁から六番・木村蓮が、低めのカーブをセンター前へ運んで先制。「自分のバッティングができた。濱崎が頑張ってくれていたので、このチャンスに決めようと準備していた」

だがその後、水戸農に7・8回に計3点を挙げられ逆転を許す。これに対し「後半はスピードが落ち、変化球を意識した。でも気持ちは切らさず、最後まで集中していた」と濱崎。木村も「あきらめなければチャンスはある。自分たちのリズムを作っていこう」と、2年生主体のチームを上級生として励ました。

8回裏、木村の中前適時打で1点差に詰め寄る

8回裏、土浦三が本来の力を見せつける。木村の中前打で1点差に迫ると、九番・上守竣の左中間を切り裂く二塁打で一気に2人が帰り、試合を再度ひっくり返す。その後も満塁から2安打と押し出しでさらに3点を加えた。

 

松浦三喜男監督は「先制して守りに入りかけたが、3-1とされたことで逆にふっきれたのではないか。波に乗れれば8回のような勢いが出せる。若いチームの弱さと強さが出た」と評した。

逆転打の上守は「応援してくれる人の気持ちを受け取りながら、必ず打つ気持ちで臨んだ。打撃練習などの相手をしてくれたベンチ外の先輩にも、この一打で感謝の気持ちを伝えられたと思う」と振り返った。

2回戦は13日、ノーブルホームスタジアム水戸で古河三と対戦する。

8回裏、逆転打を放ち二塁上で笑顔を見せる上守

第100回全国高校野球選手権茨城大会 1回戦(7月9日、J:COMスタジアム土浦)

土浦一 4 3 0 4 0 11
神栖 0 0 0 0 0 0

バッテリー
土浦一:先崎、酒寄-横島
神栖:折笠、谷野-野口

長打(すべて土浦一)
三塁打:酒井2、栗原、阿由葉、矢追
二塁打:長尾

 

水戸農 0 0 0 0 0 0 1 2 0 3
土浦三 0 0 0 0 0 1 0 6 × 7

バッテリー
水戸農:益子、仲田、小泉-戸澤
土浦三:浜崎-木村

長打
二塁打:上守(土浦三)

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