【コラム・瀬尾梨絵】連載開始以来、日本の漫画史に燦然(さんぜん)と輝き続ける美内すずえ先生の「ガラスの仮面」(白泉社、初版1976年、現在49巻)。幾世代もの読者の心を激しく揺さぶり続けてきた本作を語る時、どうしても避けて通ることができない最大のテーマが、この作品が「まだ最終回を迎えていない、現在進行形の伝説である」ということである。
物語の主人公、北島マヤが平凡な少女から奇跡の天才女優へと覚せいしていく過程は、まさに魂を削るような壮絶な旅路だった。普段はうだつが上がらず、芝居のこと以外には取り柄がないように見える彼女がひとたび舞台に立ち、役の仮面をかぶった瞬間、常人離れした恐るべき才能と憑依(ひょうい)的な演技力を爆発させる。
その原動力にあるのは、計算でも技術でもなく、芝居に対する純粋すぎるほどの情熱と魂を削るような執念。彼女のライバルである姫川亜紀子との宿命の対決、幻の名作「紅天女」をめぐる過酷な試練、そして彼女を見守り続ける速水真澄(紫のバラのひと)とのじれったくも深い関係性。
数々の名シーンや名ゼリフを残しながら、物語は最高潮の熱量を保ったまま、長く深い休眠と再開の時を経て、現在もその歩みを止めていない。
「いつ完結するのだろう?」と、長年この作品を追い続ける読者なら誰もが一度は抱く問いだが、不思議なことに、この「結末がまだ見えない」という事実こそが、「ガラスの仮面」という作品を特別な存在にしている最大のスパイスなのだ。
「生きた神話」をリアルタイムで目撃
一般的な物語であれば、最終回を迎えることで一つの美談として完結し、本棚のなかに思い出としてしまわれてしまう。しかし、作中の登場人物たちと同じように、私たち読者もまた、「紅天女の行方は?」「マヤと真澄の恋の結末は?」という途方もない熱狂のただ中に、今なお取り残され続けているのだ。
物語が完結していないからこそ、作中のキャラクターたちは今この瞬間も、どこかの世界の舞台裏で息づき、セリフを覚え、芸を磨き、運命の幕が上がるのを待っているような気配をまとう。それは一種の「生きた神話」をリアルタイムで目撃しているような、圧倒的なライブ感に他ならない。
効率やスピード、あるいはあらかじめ結末の保証されたコンテンツがあふれる現代。その真逆をいくように、何十年もの時間をかけて一つの芸道、一つの恋の成就を追い求めるこの作品のあり方は、むしろ現代において異彩を放ち、強烈な輝きを放っている。結末が分からないからこそ、何度でも読み返し、新たな解釈を見出し、次の展開に想いをはせることができる。
未完であることそのものが読者にとっての一つの大きなエンターテインメントであり、いとおしい時間なのだ。
カーテンコールは、まだ鳴り止まない。北島マヤという天才が駆け抜ける終わらない舞台の幕が、今日もどこかで開き続けていることの奇跡をかみしめながら、私たちはこれからもその行く末を見守り続ける。(牛肉惣菜店経営)






最近のコメント