つくば市 中川静香さん(89)
広島出身の中川静香さん(89)は、つくば市みどりの地区に住む。二・二六事件が発生した1936年、原爆ドームから1.8キロほどの広島市的場町で生まれた。原爆が投下された1945年8月6日は、父親の実家がある瀬戸内海の能美島に一家で疎開していて無事だった。
1911(明治44)年生まれの父親は、小学5年か6年のころ、仕事に就くため、能美島から広島市にきた。仕事の手伝いをしていた時、大きな氷が落ちてきて左足を切断した。その後、義足や義手など補装具をつくる店に丁稚奉公した。やがて独立し、七軒長屋で補装具店を開いた。
長女の静香さんは七軒長屋で生まれ、1、2年生までは広島市内の段原国民学校(小学校)に通った。同小学校は8月6日の原爆投下時、木造校舎が爆風で押しつぶされ、下敷きになった子供たちを救出できないまま猛火に包まれた。後に悲劇の学校といわれるようになる。
一人で叔父の家に疎開
2年生の終わり、静香さんは学校から、子どもは疎開した方がいいので集団疎開か個人疎開かどちらかを選ぶよう言われ、父の実家がある能美島の沖村(現在は江田島市)に疎開することになった。
一人で疎開することになり、広島市に迎えに来た父の兄に当たる叔父に連れられて沖村に向かった。能美島の中村(現在は中町)という船着場に船が着いて、そこから先はずっと歩いた。「まだかね、まだかね」と言いいながら歩いたのを覚えている。
母親は大分県出身。1942(昭和17)年に6歳下の妹が生まれた。静香さんが疎開した後、母親は出産のため妹を連れて実家の大分に里帰りした。1945(昭和20)年7月に弟が生まれ、母親は、妹と生まれたばかりの弟を連れて父の実家にきた。父親も後からやってきた。当時、弟のためのミルクは無く、コメをすりこぎで擦って水で薄め、沸かして弟に飲ませた。「昭和20年生まれの弟には何もなかった」と静香さんはいう。
叔父の家では「家族の人数が多いものだから、遠慮しながら小さくなって過ごした」。能美島ではサツマイモがいっぱい栽培され、食事は、米粒が少しと、サツマイモばかりだった。海軍の造船所が集積し、当時、東洋一の軍港と呼ばれた呉の街が空襲を受け、夜、呉の空が真っ赤に焼けていたのを覚えている。
キノコ雲が見えた
1945年8月6日朝、家の廊下に座っていた時、ピカッと光ったように感じ、やがてキノコ雲が見えた。小学3年だったが、当時は何も分からなかった。その後、「ピカドンが落ちて、やけどで皮膚がはがれた幽霊みたいな人が、船着場に大勢着いた」という噂を聞いた。島だから村に病院もなかった。島で被爆者に直接会ったことはないが、逃げてきたんだと思った。ひどいことばかりで、当時は何も思わなかったし、思う暇もなかった。
原爆投下から2、3日後、七軒長屋に残してきた商売道具がどうなったか心配し、父親が的場町に見に出掛けた。すぐに帰ってきたが、戻った父親は広島市の様子を何も話さなかった。
8月15日は夏休みだったのに、皆、国民学校に集められ、運動場で玉音放送を聞いた。
中心部に向かって歩くにつれ焼け野が原だった
父親は、これ以上、兄の世話になるのがしのびないと、その後もたびたび広島市に行き、バラックの家を建てた。薄っぺらな木の板で囲った小屋で。終戦から1年数カ月後の1946年秋、一家で広島市に戻った。船で広島市の宇品(うじな)に着き、そこから皆で数キロを歩いた。宇品には建物がちょっとずつ残っていたが、広島市の中心部に向かうにつれて建物はなくなり、焼け野が原だった。
父親が建てたバラックは爆心地から1.5キロほどの日赤病院そばのにあった。日赤以外、建物はなかった。当時、病院はがらんとしていて、妹と2人、日赤病院の庭を駆け回ったり、なわとびをしたりして遊んだ。やがて静香さんと妹の2人はたびたび鼻血が出るようになり、その後何十年間も鼻血に悩まされた。当時は放射能に関する知識もなかった。「ピカドン、ピカドンというだけで、放射能の被害など意識してなかった。当時の子供たちは皆、ほったらかしだった」と振り返る。
当時、ピンク色のコーリャンが配給されたが食べ物は足りず、近所のおばさんからヤミ米を買った。おばさんは田舎に行って仕入れた物を、着物と引き換えに高く売った。食べ物には苦労し、焼け跡の土地に野菜を植えて飢えをしのいだ。
広島市に戻ってからは、千田小学校の4年生に転入した。原爆で児童41人と教師3人が犠牲になった小学校で、教室に窓ガラスがなくて、紙か何かがガラスの代わりに貼られていた。運動場の真ん中には麦畑がつくられていて、運動会では麦畑の周囲を走った。学校の講堂は、焼けて赤茶けた鉄骨だけが残っていた。運動場にガラスの破片がころがっていて、子供たちがガラスを拾う時間が設けられた。学校の教科書は薄っぺらだったが、黒塗りでいっぱいだった。
1948(昭和23)年、一番下の弟が生まれ、きょうだいは4人になった。生活はいっぱいいっぱいで、父も母も子供たちを養うのに一生懸命だった。
世の中が落ち着いたころ。父の補装具店に病院から注文が入り、コルセットなどをつくるようになった。原爆で建物の下敷きになり、けがをして手足を失った人などが父の店をたずねてきた。長女の静香さんは学校に通いながら父親の仕事を手伝った。補装具の型をとるため、ガーゼに石膏の粉を付けるのが静香さんの仕事だった。
学校には行っていたが、父や母の手伝いで勉強する暇もなかった。中学生になり、6歳下の妹が小学校に入学した時は、忙しい父母に代わって、妹の父兄会に参加したり、成績表をもらいに行ったりした。
「歴史に学ばないのか」
静香さんは短大を卒業後、短大の化学室の助手などを務め、その後、結婚。2022年に、娘が暮らすつくば市に転居するまで広島で暮らしてきた。
父親はずっと原爆手帳をもらわずにきたが、原爆投下後、2週間以内に爆心地から2キロ以内に入った人は「入市被爆」と認定され、原爆手帳がもらえると聞き、戦後何十年か経って、原爆手帳を申請した。静香さんが父の手続きを手伝い、86歳で亡くなる10年くらい前に原爆手帳をもらった。亡くなった時、津川貞夫という父の名前は原爆死没者名簿に載り、慰霊碑(広島平和都市記念碑)に奉納された。申請時、静香さんは「戦争するのはいけない」と父の申請書に書き添えた。父親以外の家族は原爆手帳交付の対象にはならなかった。
戦後、静香さんは、核兵器廃絶を求める署名活動など平和運動に関わるなどした。今の世の中については「戦前の軍国主義の時代を知っているので、武器種出規制の緩和やスパイ防止法の動きなどを見ると、ピンとくる。歴史に学ばないのか、歴史は繰り返すのかと悲しくなる」と話す。(鈴木宏子)






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