金曜日, 9月 11, 2026
ホームつくば広島の焼け野が原を駆け回った【語り継ぐ 戦後81年】3

広島の焼け野が原を駆け回った【語り継ぐ 戦後81年】3

つくば市 中川静香さん(89)

広島出身の中川静香さん(89)は、つくば市みどりの地区に住む。二・二六事件が発生した1936年、原爆ドームから1.8キロほどの広島市的場町で生まれた。原爆が投下された1945年8月6日は、父親の実家がある瀬戸内海の能美島に一家で疎開していて無事だった。

1911(明治44)年生まれの父親は、小学5年か6年のころ、仕事に就くため、能美島から広島市にきた。仕事の手伝いをしていた時、大きな氷が落ちてきて左足を切断した。その後、義足や義手など補装具をつくる店に丁稚奉公した。やがて独立し、七軒長屋で補装具店を開いた。

長女の静香さんは七軒長屋で生まれ、1、2年生までは広島市内の段原国民学校(小学校)に通った。同小学校は8月6日の原爆投下時、木造校舎が爆風で押しつぶされ、下敷きになった子供たちを救出できないまま猛火に包まれた。後に悲劇の学校といわれるようになる。

一人で叔父の家に疎開

2年生の終わり、静香さんは学校から、子どもは疎開した方がいいので集団疎開か個人疎開かどちらかを選ぶよう言われ、父の実家がある能美島の沖村(現在は江田島市)に疎開することになった。

一人で疎開することになり、広島市に迎えに来た父の兄に当たる叔父に連れられて沖村に向かった。能美島の中村(現在は中町)という船着場に船が着いて、そこから先はずっと歩いた。「まだかね、まだかね」と言いいながら歩いたのを覚えている。

母親は大分県出身。1942(昭和17)年に6歳下の妹が生まれた。静香さんが疎開した後、母親は出産のため妹を連れて実家の大分に里帰りした。1945(昭和20)年7月に弟が生まれ、母親は、妹と生まれたばかりの弟を連れて父の実家にきた。父親も後からやってきた。当時、弟のためのミルクは無く、コメをすりこぎで擦って水で薄め、沸かして弟に飲ませた。「昭和20年生まれの弟には何もなかった」と静香さんはいう。

叔父の家では「家族の人数が多いものだから、遠慮しながら小さくなって過ごした」。能美島ではサツマイモがいっぱい栽培され、食事は、米粒が少しと、サツマイモばかりだった。海軍の造船所が集積し、当時、東洋一の軍港と呼ばれた呉の街が空襲を受け、夜、呉の空が真っ赤に焼けていたのを覚えている。

キノコ雲が見えた

1945年8月6日朝、家の廊下に座っていた時、ピカッと光ったように感じ、やがてキノコ雲が見えた。小学3年だったが、当時は何も分からなかった。その後、「ピカドンが落ちて、やけどで皮膚がはがれた幽霊みたいな人が、船着場に大勢着いた」という噂を聞いた。島だから村に病院もなかった。島で被爆者に直接会ったことはないが、逃げてきたんだと思った。ひどいことばかりで、当時は何も思わなかったし、思う暇もなかった。

原爆投下から2、3日後、七軒長屋に残してきた商売道具がどうなったか心配し、父親が的場町に見に出掛けた。すぐに帰ってきたが、戻った父親は広島市の様子を何も話さなかった。

8月15日は夏休みだったのに、皆、国民学校に集められ、運動場で玉音放送を聞いた。

中心部に向かって歩くにつれ焼け野が原だった

父親は、これ以上、兄の世話になるのがしのびないと、その後もたびたび広島市に行き、バラックの家を建てた。薄っぺらな木の板で囲った小屋で。終戦から1年数カ月後の1946年秋、一家で広島市に戻った。船で広島市の宇品(うじな)に着き、そこから皆で数キロを歩いた。宇品には建物がちょっとずつ残っていたが、広島市の中心部に向かうにつれて建物はなくなり、焼け野が原だった。

父親が建てたバラックは爆心地から1.5キロほどの日赤病院そばのにあった。日赤以外、建物はなかった。当時、病院はがらんとしていて、妹と2人、日赤病院の庭を駆け回ったり、なわとびをしたりして遊んだ。やがて静香さんと妹の2人はたびたび鼻血が出るようになり、その後何十年間も鼻血に悩まされた。当時は放射能に関する知識もなかった。「ピカドン、ピカドンというだけで、放射能の被害など意識してなかった。当時の子供たちは皆、ほったらかしだった」と振り返る。

当時、ピンク色のコーリャンが配給されたが食べ物は足りず、近所のおばさんからヤミ米を買った。おばさんは田舎に行って仕入れた物を、着物と引き換えに高く売った。食べ物には苦労し、焼け跡の土地に野菜を植えて飢えをしのいだ。

広島市に戻ってからは、千田小学校の4年生に転入した。原爆で児童41人と教師3人が犠牲になった小学校で、教室に窓ガラスがなくて、紙か何かがガラスの代わりに貼られていた。運動場の真ん中には麦畑がつくられていて、運動会では麦畑の周囲を走った。学校の講堂は、焼けて赤茶けた鉄骨だけが残っていた。運動場にガラスの破片がころがっていて、子供たちがガラスを拾う時間が設けられた。学校の教科書は薄っぺらだったが、黒塗りでいっぱいだった。

1948(昭和23)年、一番下の弟が生まれ、きょうだいは4人になった。生活はいっぱいいっぱいで、父も母も子供たちを養うのに一生懸命だった。

世の中が落ち着いたころ。父の補装具店に病院から注文が入り、コルセットなどをつくるようになった。原爆で建物の下敷きになり、けがをして手足を失った人などが父の店をたずねてきた。長女の静香さんは学校に通いながら父親の仕事を手伝った。補装具の型をとるため、ガーゼに石膏の粉を付けるのが静香さんの仕事だった。

学校には行っていたが、父や母の手伝いで勉強する暇もなかった。中学生になり、6歳下の妹が小学校に入学した時は、忙しい父母に代わって、妹の父兄会に参加したり、成績表をもらいに行ったりした。

「歴史に学ばないのか」

静香さんは短大を卒業後、短大の化学室の助手などを務め、その後、結婚。2022年に、娘が暮らすつくば市に転居するまで広島で暮らしてきた。

父親はずっと原爆手帳をもらわずにきたが、原爆投下後、2週間以内に爆心地から2キロ以内に入った人は「入市被爆」と認定され、原爆手帳がもらえると聞き、戦後何十年か経って、原爆手帳を申請した。静香さんが父の手続きを手伝い、86歳で亡くなる10年くらい前に原爆手帳をもらった。亡くなった時、津川貞夫という父の名前は原爆死没者名簿に載り、慰霊碑(広島平和都市記念碑)に奉納された。申請時、静香さんは「戦争するのはいけない」と父の申請書に書き添えた。父親以外の家族は原爆手帳交付の対象にはならなかった。

戦後、静香さんは、核兵器廃絶を求める署名活動など平和運動に関わるなどした。今の世の中については「戦前の軍国主義の時代を知っているので、武器種出規制の緩和やスパイ防止法の動きなどを見ると、ピンとくる。歴史に学ばないのか、歴史は繰り返すのかと悲しくなる」と話す。(鈴木宏子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho





spot_img

最近のコメント

最新記事

別館宴会場「昴」を大改修 ホテル日航つくば

ホテル日航つくば(つくば市吾妻1丁目)は別館大宴会場「昴(すばる)」の大改修を進めていたが、このほど工事が完了、10日、報道機関などへの内覧会を開いた。天井照明装置、影像音響装置、床カーペットなどが一新され、「幅広い用途に対応できる宴会場として生まれ変わった」(古澤聡総支配人)。改修費は約3億円という。 同ホテルは、1985年開催のつくば科学万博に合わせ、1983年「筑波第一ホテル」として開業。別館は1990年に完成した。その後、ホテルオークラ(本社東京都港区)が運営を引き継ぎ、2001年「オークラフロンティアホテルつくば」に名称を変更。さらに経営権もオークラが継承、同社による日本航空系ホテル買収から10年後の2020年、現ホテル名になった。 筑波山稜線、桜川水面をイメージ 改修は大きく分けると3分野。天井照明は蛍光灯からLEDに換え、明るさを従来の3倍にし、スポット照明に動作性を持たせた。プロジェクターは後方壁面に備え付け(これまではフロアーに設置)、壁面スクリーンも電動操作(同手動操作)にし、音響器機には音質劣化抑制システムを導入した。カーペットは、紫峰・筑波山の稜線、市内を流れる桜川の水面などをイメージできるデザインのものに張り替えた。 古澤総支配人は「3分割可能な大宴会場は約700平方メートルの広さがあり、県南にある宴会場としては最大級。式典、宴会、結婚式などの快適性だけでなく、各種の会議に対応できるよう、照明器具や会議装置の機能性もアップした」と話す。 新装で増収目指す 同社の2025年度の売上高は18億2000万円。今年度は20億円を見込む。収入の半分を占める宿泊部門は外国人観光客を呼び込むことで増収を図り、宴会部門は新装会場の稼働率アップで増収を目指す。さらに、両部門の活性化を飲食部門につなげ、レストラン「セリーナ」、中国料理「桃李」、「常陸牛 山水」などの利用者増も狙う。(坂本栄)

投票時間1時間繰り上げ午後6時まで つくば市選管

つくば市は9日、今後実施される選挙について、投票日当日の投票時間を、これまでの午後7時までから1時間繰り上げて午後6時までとすると発表した。1日開いた市選挙管理委員会(野尻等委員長)で決めた。12月4日告示、13日投開票の県議選から実施される。 繰り上げの理由は、期日前投票を利用する投票者が増加していること、当日投票者の9割が午後6時までに投票を済ませていることなど。市選管事務局によると、昨年9月の知事選での同市の期日前投票の投票率は39%、今年2月の衆院選は54%だった。投票所立会人の従事時間が長時間に及んでいることを懸念する意見も出されたという。 投票日当日の投票開始時間に変更はなく、午前7時から。期日前投票の投票時間も変更はなく、市役所投票所の場合、午前8時30分から午後8時まで。 投票時間が繰り上がるのに伴い、12月の県議選の開票作業は、これまで午後8時20分から開始していたものを、午後8時からに20分繰り上げる予定だという。 公選法は午後8時まで 一方、公職選挙法は投票時間を午前7時から午後8時までと定め、特別の事情があり投票に支障をきたさない場合に限り、4時間以内の範囲内で繰り上げなどを認めている。 つくば市では2012年から、投票時間を法定の午後8時までから1時間繰り上げて午後7時までとしてきた。 県選管によると、今年2月の衆院選では、県内44市町村中、38市町村が午後6時で当日の投票を締め切り、つくば市を含め5市町が午後7時までとしていた。公選法の規定通り県内で唯一、午後8時までだった牛久市は今年度から、当日の投票時間を2時間繰り上げ、午後6時までとすると発表している。12月の県議選の各市町村の投票時間について、県選管はこれから調査する予定だとしている。(鈴木宏子) 【訂正 10日午後1時10分】3段落目、市役所投票所の期日前投票の開始時間は午前9時ではなく8時30分からの誤りでした。

ワイン用ブドウの収穫が最盛期 筑波山麓

筑波山麓で8月末からワイン用ブドウの収穫が始まり、最盛期を迎えている。収穫作業は9月末まで続く。つくば市は2017年に「つくばワイン・フルーツ酒特区」に認定され、現在市内には四つのワイナリーがある。 筑波山麓には、筑波大出身で、ワイナリー「ビーズニーズヴィンヤーズ」(同市神郡)を経営する今村ことよさん(53)のブドウ畑が広がる。今村さんは2015年から栽培を始めた。現在、山麓の沼田地区と臼井地区の2カ所に計約1.5ヘクタールあり、白ブドウのシャルドネ、黒ブドウのシラーなど10品種を栽培している。今村さんは今年6トンの収穫を目指している。 ブドウの栽培からワインの醸造まで今村さんが一人で担っているが、収穫作業は人手が必要になる。初日の8月30日にはSNSの呼び掛けで、ワイン作りを学びたいと、つくば市内や東京都、千葉県などから、50歳代の男女6人が集まり、ボランティアで収穫を手伝った。 ボランティアの6人はこの日、沼田地区のブドウ畑でジュースとして利用するメルローなどの品種を収穫した。今村さんから指導を受けながら、剪定(せんてい)ばさみを用いて、ていねいに収穫していった。千葉県習志野市から参加した公務員、角田圭吾さん(54)は「各地域のブドウ畑でボランティアとして収穫作業に参加している。今村さんの指示は的確で細かくありがたい」と語り、都内から参加した50代の男性は「つくばでワインが出来るのに驚いた。山麓の景色の良いところで作業できるのはうれしい」と話していた。 収穫作業と併せて、今村さんのワイナリーでは9月4日から、今シーズンのワインの仕込みが始まった。八千代町と埼玉県入間市の2軒のブドウ農家も加わり、それぞれ収穫したブドウを持ち込み、ブドウの品種や状態に合わせて、機械でブドウの茎や軸を取り除いたり、圧力をかけてブドウを絞る作業などを実施した。 この日持ち込まれたブドウは、今村さんが700キロ、八千代町のブドウ農家が700キロ、入間の農家が220キロの合計1620キロ。仕込み作業で出た搾りかすは、今村さんが肥料として利用する。2軒のブドウはそれぞれ、今村さんが受託しワインを醸造する。 今村さんは「今年はここ数年に比べて気温が低く、ブドウの色づきも良く、昨年よりも良いブドウが収穫出来そうだと期待している。収穫や仕込みの作業がまだまだ続くが、良いワインになるようにがんばっていきたい」と話している。(榎田智司)

「禍根を残す」「立つ鳥跡を濁す」《ハチドリ暮らし》65

【コラム・山口京子】どうやって始末をつけるのか? どう片づけを考えるのか? 個人であれ、社会であれ、「禍根を残さず」とか「立つ鳥跡を濁さず」という言葉は死語になってしまったのでしょうか? 科学技術が軍事利用、商業利用されるにつけ、「禍根を残す」「跡を濁す」ケースが増えているように思えます。 今、近代西洋科学には、自然を人間の都合で改変してしかるべし―という姿勢があるような気がしてなりません。科学を利用する人間の欲望のなせる業なのでしょうか。科学技術の成果が商品化され、社会がどんどん複雑化しているのに対し、人間の思考は単純化していると感じます。次第にお手上げ状態で生きるのではないか―そんな不安がよぎります。 人間のすることは自然にかなわないと分かった東日本大震災。福島原発事故のその後について、なぜ詳しい報道がされないのでしょうか? 緊急事態宣言が解除されたとは聞きません。福島の第一・第二原発の廃炉処理はどうなっているのか? 廃炉のロードマップ、時間・費用・技術など、素人には分かりません。それでも、廃炉の費用は税金から支出されるのでしょう。 経済破綻を戦争でウヤムヤに? パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事した中村哲さんの本に、こんな言葉がありました。「(国連難民帰還の)机上のプランは事情を知らぬものには説得力があったが、我々にはまるで粗悪なカリカチュアとしてしか映らなかった」と。それは彼の地を見続けた医師の声ですが、廃炉にも当てはまるのではないでしょうか。 事態がどうなっていくのか…。あれだけの大きな被害があり、今も将来も続いていくのに、責任はだれも取っていないような…。日本列島は地震の活動期に入ったと言われます。その上に、いくつの原子力発電所が建っているのか…。いつ大きな地震が来てもおかしくない今、それらを稼働させることは悪夢でしかないのでは? 各国ともども軍事費が膨張していくとなれば、未来はどうなるのでしょう? 国家は経済破綻を戦争でウヤムヤにするかもという声を聞きます。将来世代に重い負担が課せられていくでしょう。大きな負担と危険が隣り合わせの暮らしを押しつけることは、許されないはずなのに…。(消費生活アドバイザー)