つくば市 飯田節子さん(92)
つくば市神郡に住む飯田節子さん(92)は、江戸時代から続く飯田石材店の養子となり育った。節子さんの終戦は小学5年の時だった。
兄も養子だったが、ニューギニアで戦死した。連合国軍との間で1942年から終戦の日まで続いた「ニューギニアの戦い」では、日本兵15~20万人が動員され、生還したのは1~2万人といわれる。
戦時中、節子さんが通った田井国民学校(旧田井小学校)では、校庭を耕し農作業などをした。授業中でも空襲警報が鳴り、みんなで防空頭巾をかぶり、学校の裏にある防空壕まで避難するという日々が続いた。近くの山林に戦闘機が落下したことも覚えている。
都会から疎開に来た子も多くいた。農家の子供は比較的ひもじい思いはしなかったが、ご飯はイモを混ぜたものだった。疎開していた子供の中にはお弁当に、おじやを持って来ていた子もいた。
節子さんの家の近くにある普門寺には、若い兵隊さんが泊まっていて、家族が時々お世話に行ったそうだ。子供だった節子さんも時折、兵隊さんの姿を見た。節子さんの自宅に写真が残されており、兵隊さんはまだ少年の顔をしている。戦死した人も多数いたと聞いた。

戦中の混乱期でも子供の無事と健康を祈る行事が行われていて、終戦の日の8月15日、節子さんは、数え年13歳を迎えた子供が詣でる「十三詣り」の行事で、東海村にある村松虚空蔵尊を訪れていた。虚空蔵尊で玉音放送を聞き、同行した大人から戦争が終わったことを教えてもらった。
兄が戦死したことにより、家族に遺族年金が入るはずだったが、養子の兄は正式に飯田家の戸籍に入っていなかったため遺族年金が入らず、裁判を経て受給に至ったという苦労もあった。当時、戦死者が出た家には必ず支給される生活物資も入らなかったという。
その後、節子さんは石材店の後継者となり、お婿さんをもらい、家業を守ってきた。
1954(昭和29)年3月には、節子さんの夫、藤蔵さんらが中心となって、飯田家の菩提寺でもある普門寺入り口付近に戦没者慰霊碑を建てた。「殉国慰霊碑」と刻み、田井地区(当時の田井村)の戦没者を悼んだ。碑の裏には200人に及ぶ戦没者の名前を、日中戦争と太平洋戦争に分けて刻んだ。

「たくさんいた遺族も少なくなって、今は慰霊碑を管理する家が2軒しかいなくなった」と節子さんは嘆く。
「戦争は遠い昔になってしまったが、当時を知るものが伝えていかなければみんなが忘れてしまう。平和な時代がずっと続くとよい」と語る。(榎田智司)






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