月曜日, 10月 12, 2026
ホームつくば自宅に負傷した日本兵がかつぎこまれた【語り継ぐ 戦後81年】1

自宅に負傷した日本兵がかつぎこまれた【語り継ぐ 戦後81年】1

つくば市 飯田猷子さん(92)

筑波山麓のつくば市神郡に住む飯田猷子(みちこ)さん(92)の終戦は、小学6年の時だった。「戦争には良い思い出がなく、つらいことばかりなので、あまり話したくはない」と言いながらも、80年前を振り返ってくれた。

猷子さんは、室町時代から伝わる、和紙で贈り物を包む礼儀作法「折形(おりがた)礼法」の指導者で、「日本の折形歳時記 礼の心」などの著書がある。

81年前、筑波山麓の上空にはかなりの戦闘機が行き交った。空中戦を繰り返す戦闘機の様子も見られた。筑波山は飛行機にとっては目印なので、かなりの頻度でやってきたのではないかという。近隣の作谷には、落下傘やグライダーを用いて敵地に進むグライダー訓練基地だった西筑波陸軍飛行場があった。

ラジオで空襲警報が鳴ると、各家庭にある防空壕に身を寄せた。辺りが静かになると防空壕から出てくる。1時間ぐらい防空壕に身をひそめていたという。幸い神郡周辺に爆撃はなく家屋に被害はなかったが、近くの山林に戦闘機が墜落する事件があった。村人たちは米兵だと思い、竹やりを持って集まった。ところが、戦闘機に乗っていたのは日本兵。みんなで助け、当時、祖父が区長だったこともあり、猷子さんが住む飯田家にかつぎ込んだ。猷子さんは血だらけの兵士を見てとても怖かったと振り返る。兵士はその後、作谷にあった施設にかつぎこまれ手当てを受け、助かった。後に歩けるようになり、白い患者服を着たままお礼に来たという。

猷子さんは1933(昭和8)年、東京都北多摩(現在 東久留米市)の寺の長女として生まれるが、母の実家だった神郡に2歳で預けられた。その後、猷子さんの叔父にあたる飯田家の長男、次男が中国北部で戦死、3男も入隊したのち病気になり、戦後自宅で亡くなった。飯田家に男子の後継者がいなくなり、猷子さんは祖父母に育てられながら、飯田家の後継者となった。

1945(昭和20)年、戦況がひどくなるころは、通っていた田井国民学校(田井小学校、2018年に廃校)でも授業が少なくなり、サツマイモ作りなど農作業ばかりしていた。「当時の子供は食べるものも食べていないので力も出ず、くわなどの農具がうまく扱えず大変だった」。収穫前に、終戦を迎えた。

8月15日は、自宅で玉音放送を聞いた。意味はわからなかったが戦争が終わったことを知った。うれしいとか、悔しいとか、そういう感情はなかった。子供たちの間では、戦争が終わったのだから、勉強しなくても済むんじゃないかという噂も広がった。ただ「空襲警報もなくなり、戦争から解放されたのはうれしかったと思う」と語る。

猷子さんはその後、土浦の土浦二高に進学、自転車で常陸北条駅まで行き、旧筑波鉄道で通った。北条の坂がつらかった。大学に行きたかったが祖父母の反対で行けず東京洋裁学校をへて、大手電機メーカーに就職、社長秘書として2年勤め、大変勉強になったという。東京にいた4年間は、母親がいる東久留米から通った。

神郡の飯田家で生きていくことを納得し、つくばに戻り23歳で結婚。飯田家を守っていくことになる。一度東京に出たという体験が、田舎と東京の両方を知るという経験になり、田舎の良さや自然のありがたさがわかってとても良かったという。自然が好きで、日本アルプスなどの山を歩いた。「この年齢でも足腰が丈夫なのは若い頃山を歩いて鍛えておいたから」だともいう。

世界各地で今も戦争が続く世の中については「人間の欲望がある限り戦争はなくならない。欲望は人間の力の源でもあるから戦争をなくすのはとても難しい。小さなコミュニティでさえ、争いを起こす、人が争うのは必然のような気がするので、戦争がなくなる世の中は来ないのではないか」と話した。

今は本を読んだり、詩を書いたりして、ゆったりしたときを過ごしている。(榎田智司)

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