【コラム・3年 神谷洞窟】散歩が好きだ。特に深夜に歩く。できるだけ、知らない人のいない時間がいい。もちろん、知っている人も。むしろ知っている人が、いない方が好ましい。人と関わることは嫌いだ。こう言うと心の優しい人は、「嫌い」という表現は言葉が強いから、「苦手」と言い換えたらどうか、と感じるかもしれないが、私は決して人付き合いが苦手ではない。これは意地を張っているのではない、むしろ苦手ではないからこそ、嫌いなのかもしれない。というのも、高校に入学してから周りに合わせ、大きな声で笑い、それなりの返事をするのが圧倒的に上手くなったからだ(勘違いではないと信じたい)。それは、嘘(うそ)をつくことが上手くなった、という風に言い換えることもできる。このように、私たちを取り巻く世界では、対人関係の場において特に、嘘をつくことが必要不可欠となっている。しかし嘘をつくことで結ばれる関係なんて、それ自体嘘でしかない。なぜなら、嘘をつくことで他者と結びついている私は、私ではなく、私が演出した「私という虚像」でしかないからだ。
散歩しているとき、いつも自分のことを考えている。このように言うと「げーっ、自分大好きかよ」と思われてしまうかもしれないが、事実なので仕方がない。想像の中で、私はテレビにインタビューを受けている。え?好きな画家ですか?ゴーギャンです(笑)彼の描く女性には生命力が……とまあ、このようなことを長ったらしく語るのである。余談だが、最近見た映画の中で、若いうちに他者と深い関係を築くことができず、テレビを見ることだけが生きがいの老婆が、痩せてテレビに出演するために麻薬漬けになっていくという節があった。もしかしたら、私は出演料を請求しても許されるかもしれない。若いうち、他者に本当の自分を表明することができなかった者、そんな自分を受け入れられなかった者は、理想(それは、妄想と言い換えることもできる)の世界に閉じこもるしかないのである。
このように、他者と関わることが嫌いな私は、他者を前提にして生きている。これは不思議なことだ。人付き合いなんて嫌いだと声高に宣言している人間が、毎夜他者に、自分について興味を持たれる妄想をしている。そこには大きな矛盾があるように思われる。思えばずっと、私は他者と関わり続けてきた。それは、嘘をつくことが嫌いなために他者と関わることを嫌ってきた私が、他者に嘘をつき続けてきたが故に、他者に本当の自分を表明することに取りつかれてしまったからである。

私には趣味が二つある。そのうちの一つは「小説を書くこと」で、これは読み手がいることを前提とした行為である。もちろん書いた小説を絶対に見られたくないという人も中にはいるのだろうが、私の場合はそれ用のサイトに投稿までしているのだから決して言い逃れはできない。残りの一つは「哲学」だ。私の中で哲学は、他者の存在、特に「他者に見られること」と深く結びついている、こちらのコラムに寄稿させていただいていることからも分かる通り。また、私が高校で所属しており、大学で哲学を志すきっかけともなった哲学部では、メーンの活動として哲学カフェが行われている。何人かで集まって、一つの議題について徹底的に思考を練り上げるのである。そこでは私は主にたくさん発言をするタイプのファシリテーター(司会)を務めていた。ファシリテーターは人によってかなり個性が出る。もちろんあまり自分の意見は言わず、話の流れの整理にとどまって活躍される人もいる。しかし私はとにかく自分を語った。表面的な部分から、それこそ、私を構成する核に至るまで。ここからも私がいかに自分を他者に開示することに取りつかれているかが分かるだろう。思えば、私はこれまでずっと他者に本当の自分をわかってもらいたかったのだ。他者と本質的な関係性を築きたいと思うのに、本当の自分が否定されたら耐えられない。だから嘘をつくしかない。しかしそれでは他者と深い関係を作ることはできない。いつだって、これらの矛盾の出発点にあるのは、私の中の「本当の私を理解してほしい」という、ただそれだけの話なのだ。
哲学カフェの中で、私は特に「私を逐一監視している、私の意識の中の私」についてたびたび発言してきた。これはどういうことかと言うと、私が何か少しでも非道徳的と判断され得る行動をした際に、私の意識の中に存在している私が、一斉に私に向かって石を投げ始めるのである。つまるところ、私は、「清く正しくいなくてはならない」という私の意識に縛られているのだ。
思えば、どうして私はこのような意識を構築するに至ったのだろう。
ジークムント・フロイトという精神分析者がいる。彼は社会通念上の道徳が規範意識として内面化されたものを「超自我」と呼んだ。つまり、私は、この超自我が一般より強く機能しているのだ。そこにはきっと、他者からの視線が関係している。私は善人ではない。私は子どもと小動物が好きではない。私は、たとえ道端で傷ついて泣いている人がいても、私には関係ないからどうだっていいと思う。家族でさえ、突き詰めていけば私にとっては他人だ。しかし、他者は私に「善人」でいることを期待する。そして、そんな他者の視線はいつの間にか「他者」という存在を超え、私の中に一定の規範意識を構築するに至った……それに、それはもしかしたら他者ではなくて、初めから、他者になりすました私だったのかもしれない。これは、私自身が持っている「理想の私」という虚像を実現するために、他者とは別に現実の私を監視している私がいるということだ。昔から変わっていると言われることの多かった私は、自然と自分に「常識に反してはならない」という枷(かせ)を強制するようになった。人間のふりをしている、という風に言い換えてもいい。「普通の人はこうするだろう」、「普通の人はああするだろう」。私が世間一般から逸脱しないように本当の私を封じ込めているのは、もしかしたら初めから他者などではなく、私に他ならなかったのかもしれない。

とにかく― このように、私という意識は私ではなく、他者として機能することがある。私にとって、私は私であって、私ではない。
他者が求める私は決して私ではない。他者は私の全てを知っているわけではないからだ。同じように、私が求める私も決して私ではない。私から、私に対する先入観を取り除くことはできないからだ。私は、「私とはこういう存在である」という意識を抜きにして私と向き合うことはできない。私の中の「普通でいなくてはならない」という枷は、もはや私の無意識の部分までをも侵食してしまっているからだ。それでは、私とは一体誰なのか。他でもない私をメタ的(高次的)に眺め、今このコラムを執筆しているはずのこの私は、一体誰なのか。この疑問について考えていくことこそが、他者の視線、ひいては自分の視線と上手く関わることのできない私にとって、大きな前進をもたらす契機となるような気がする。
この文章が、私と同じように、他者に本当の自分を開示できない寂しさと、行き過ぎた超自我を抱えている方にとって、何かしらになることを期待している。






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