月曜日, 10月 12, 2026
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全国の「色川さん」集う つくば・土浦でサミット開催

全国の「色川」姓の人々が交流を深める「色川姓サミット」が14日から15日にかけて、つくば市と土浦市で開かれた。色川姓発祥の地とされる和歌山県那智勝浦町色川地区の住民や茨城県内の関係者による実行委員会が主催し、宮城から和歌山まで9都府県から52人が参加した。色川サミットは2014年に色川地区で初めて開催されたのを皮切りに、16年、19年、24年と同地区で開かれ、今回が5回目となる。サミットが和歌山県外で開かれたのは初めて。

ルーツたどる

色川姓は茨城や宮城に多い一方、発祥の地とされる和歌山県の色川地区には現在、同姓の住民はいない。伝承では、平清盛の孫、維盛(これもり)を祖とする清水姓の一族が色川に住み、のちに関東や東北に移り住んだとされる。茨城では、筑波山麓にある現在のつくば市小田を拠点に、鎌倉時代から戦国時代にかけ約400年にわたり常陸国南部一帯を支配した小田氏の家臣となり、その後、土浦に土着。江戸時代の国学者、色川三中(みなか)や明治時代の政治家で土浦の水害対策に尽力した色川三郎兵衛などの人物を輩出した。

懇親会で挨拶するサミット発起人の田古良元昭さん

サミット開催のきっかけは、ルーツを調べていた色川姓の人が、長年かけて調べた資料を基に色川地区を訪ねてきたことだった。色川地区に住む田古良元昭さん(90)がその思いに共感し、関係者らと「色川姓サミット」を企画。全国の色川姓の人々と色川地区をつないで、歴史や文化を学びながら交流を深めることを目的として始まった。2019年の第3回では、色川神社の脇に「色川発祥の地」と刻んだ石碑も建立した。全国で唯一とされる「色川」という地名の由来を後世に残すとともに、色川姓の人々のよりどころとする思いを込めた。

今回のサミットでは、14日に筑波山中腹のホテル「青木屋」で講演会と懇親会を開催。土浦市立博物館元副館長の木塚久仁子さんが「関東に下った色川家」をテーマに講演し、和歌山から関東に移住した色川氏と小田氏の歴史と、江戸後期の土浦で薬種業や醤油製造業を営み国学研究に取り組んだ、色川三中の歩みを解説。「三中は自身の祖先を知りたいと思っており、『色川』が和歌山の色川出身だということを強く意識していた」と語った。懇親会では参加者は自己紹介を行いながら親睦を深めた。

色川家をテーマに講演する木塚久仁子さん

15日は、小田城跡(つくば市小田)や土浦市立博物館、土浦城址(同市中央)、色川三中の墓がある神龍寺(同市文京町)など、色川氏ゆかりの史跡を巡った。

思わぬ再開

サミットでは思わぬ再会もあった。東京都から母親と参加した色川初恵さん(57)は十数年前、勤務先で行われたAED(自動体外式除細動器)講習で「色川さん」と呼ばれる消防士を見かけたことを覚えていた。珍しい姓のため記憶に残っていたという。今回の懇親会で隣に座った、千葉県から参加した消防士の色川晃平さん(46)が、講習に参加した「色川さん」だった。「縁というものは不思議」と初恵さん。晃平さんも「以前からサミットは知っていたが和歌山までは行けなかった。ルーツをたどりたくて参加したが、こんな奇跡が起きるとは」と笑顔を見せた。

宮城県から妻と参加した色川健一さん(77)は、和歌山で開かれた第2回からサミットに参加している。「先祖の始まりに興味があり以前に色川地区を訪れたのがきっかけ。同じ姓の人が全国から集まり歴史を共有することで絆が生まれる。貴重な経験」と話した。東京・浅草の老舗うなぎ店「雷門 うなぎ 色川」の北村紀子さんは、母親の色川幸子さんと参加。「店には東北や茨城からの『色川さん』が多く来店する。今日その理由がよく分かった」と語った。

懇親会ではそれぞれが親睦を深めた

続けていきたい

和歌山から訪れた実行委員会会長の浦勝良さん(75)は「関東や東北に色川姓の方が多く、和歌山での開催は距離的な負担もあった。より多くの人に知ってもらおうと関東開催を企画した。土浦やつくばには色川家にとって重要な歴史が残っていると実感した。今後も交流の輪を広げていきたい」と話した。サミットが始まるきっかけを作った田古良さんは「多くの方に参加してもらい、色川地区と色川姓の絆を深めることができた。今後もサミットを続けていきたい」と語った。

和歌山から参加した実行委員。左から2人目が浦勝良さん、右端が家村直宏さん

色川地区は、和歌山県那智勝浦町にある人口300人ほどの山村で、色川村と呼ばれていた。かつては銅鉱山や農林業が盛んで1950年代には3000人が暮らしていたとされる。現在も、色川茶の産地として知られている。約50年前から移住者を積極的に受け入れてきた歴史があり、現在、住民の半数余りが移住者だという。自身も移住者で集落支援員として活動する実行委員の家村直宏さん(41)は、「色川地区は自然が豊かな土地で、私も5年前に、自然と、地域に愛着を持ち暮らしている地域の方々に一目惚れして家族で移住した。ぜひ、多くの方に関心を持ってもらい、実際に色川に足を運んでいただければ」と語った。(柴田大輔)

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