【コラム・原田博夫】このところ「常陽藝文」センター(つくば教室)で、高校・大学の同級生、糸賀茂男氏(常磐大学名誉教授、土浦市立博物館長、専門は常陸中世史)氏の講座を継続的に受講しています。昨年10月から始まった講座(全10回)は、石岡国府の話題です。
茨城・石岡国府の場所は?
石岡には、相当な期間、国府が置かれていましたが、その場所は必ずしも固定されていたわけではなく、おおむね3期(始源国府<7世紀末~10世紀>、茨城=ばらき=国府<11世紀~12世紀末>、石岡国府<13世紀初め~14世紀中葉あるいは末>)に分けられるなど、これまでの漠然とした認識を改めさせられることの多い、有意義な講座です。
同時に、在庁官人の一部はどうやら、国衙(こくが)から西方で筑波山東麓の、恋瀬川(旧信筑川)を挟んだ志筑地区(徒歩では約30分)およびその周辺に居住していたのではないかとの推測をうかがうと、(祖父<母方>が志筑村<現かすみがうら市>村長だった)当方としては、勝手に妄想が膨らみました。
万葉歌人、高橋虫麻呂の歌
筑波を詠んだ8世紀半ばの万葉歌人・高橋虫麻呂は、次のような歌を残しています。以下は、佐竹昭宏他校注『万葉集(三)』(岩波文庫、2014年)の読み・解釈に従います。
「草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花(おばな)散る 師付(しつく、志筑)の田居(たゐ)に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にいばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良(よ)けくを見れば 長き日(なげきけ)に 思い積み来(おもいづみこ)し 憂へは止みぬ」(巻第九「雑歌」1757)。
ここでは、都からの長旅の疲れが晩秋の筑波山からの風景で慰められています。
前後して、夏、筑波山に検税使(けんせいし)大伴卿を案内して登山した際の、「衣手(ころもで) 常陸の国の…(中略)…夏草の 繁くはあれど 今日の楽しさ」(巻第九「雑歌」1753)には、都から来訪した上司の希望した筑波登山と宴会を晴天で行えたことの喜びがあふれています。その時期は、奈良時代・天平期のようです。
高橋虫麻呂が、筑波山から詠んだ風景にあえて地名・師付(しつく)を入れたのも、当時の石岡国衙の在庁官人たちにこの地が(居宅地の一つとして)馴染(なじ)みがあったからではないか、と妄想するわけです。
日本人の美意識に変化?
他方、蛍への言及が無いのは、不思議です。というのも、私自身、学齢前の数年間は、石岡市内に居住・転居(守横町や守木町)していて、初夏の夕暮れ、両親とともに、石岡と志筑の間を流れ、北西方向に筑波山を望む恋瀬川に、蛍狩りに出かけたことを思い出すからです。その時に見た蛍の演舞する様は、優雅かつ幻想的だったことを、子供心に覚えています。
というよりも、万葉人はどうやら、蛍への関心は無かったのかもしれません。岩波文庫『万葉集』(全5冊、2013~15年)の「索引」にも見当たりません。これは、11世紀初頭には成立したとされる『源氏物語』全五四帖の第二五帖が「蛍」巻とされていて、光源氏と玉鬘の関係をめぐる白眉であるのに比して、大いになる疑問です。
この間に、日本人の美意識に変化があったのでしょうか。地名・志筑からの勝手な連想を、たくましくしてみました。(専修大学名誉教授)






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