【コラム・原田博夫】体験・記憶の継承は、意識的に行われる場合もあるが、偶然の場合もある。戦争や東日本大震災などは前者で、しかも社会的な取り組みが求められる。家族・知人の体験の多くは後者で、その発現は一般化しにくい。今回は、私自身の体験を紹介したい。
私の母方の祖父(1888~1976年)は、県会議員(1907~15年)を父に持ち、自身も地元の小学校長・村長を務め、二男五女に恵まれた(私の母は三女)。加えて、進学先の土浦中学(現在の土浦一高)では友人(後に町長)にも恵まれ、その長女を自分の長男(後に村長)の嫁に迎えた。その祖父が、私が土浦一高に進学した際、自分自身の体験を基に、友人との出会いの重要性を語り、激励してくれた。
武井大助と小泉信三のこと
その祖父(自身は第7回=1908年3月=卒)は「自分が入学した土浦中学には、立派な先輩たちがいた。とりわけ、武井大助氏(第3回=1904年3月=卒、1887~1972年、東京高商=現在の一橋大学=卒、海軍主計中将。歌人としても知られ、戦後、安田銀行・文化放送社長などを歴任)は、学業成績もさることながら人格も高潔だった」と話してくれた。残念ながら、武井氏の具体的なエピソードを聞きそびれたが、この先輩の名前は記憶していた。
その後、私は慶應義塾に進学し、塾生(在学生)・塾員(卒業生)の必読書『学問ノススメ』『福翁自伝』『海軍主計大尉 小泉信吉』(前2書は福沢諭吉著、3冊目は小泉信三著)などを手に取ってみた。塾長・小泉信三(1888~1966年)は、『…小泉信吉』(1946年、300部限定私家版)で、1942年10月に南太平洋で戦没した一人息子への哀切をつづった。
自身は東京大空襲(1945年5月)で瀕(ひん)死の大火傷(やけど)を負い、『…小泉信吉』の公刊を固辞していたが、没後の1966年、文藝春秋から刊行された(文春文庫、1975年)。
一読では気づかなかったが、再読・三読してみると、信吉主計中尉(戦死後大尉)の死後、武井主計中将・海軍省経理局長が小泉邸へ弔問。信三博士は、海軍省へお礼に伺候(しこう)するなど、信三博士と武井中将の交流エピソードが登場する。この武井氏は土浦中学のあの大先輩ではないか、と思い当たった。しかも武井氏は、信吉中尉が乗船し轟沈(ごうちん)した八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦死後少将)と中学同級生だったそうだ。
同書では、学校名への具体的な言及はないが、これは明らかに土浦中学である。歴史上の(偶然の)奇縁をもって、この関係性を明記しておきたい。
武井氏は二度目の弔問の際、「一筋にいむかふ道を益良夫の ゆきてかへらむなにかなげかむ」と詠んだそうである。これは、わが子顕家の戦没を嘆く北畠親房の気持ちにつながるものだ、と信三博士は記している。親房が、南朝・後醍醐天皇の意を体して、筑波山麓の小田に籠(こも)ったことは知られている。さらに、『…小泉信吉』私家本を出す際、編集者の依頼で横山大観(水戸出身)に巻頭の絵(群青で日ノ出の富士)を描いてもらいながらも、戦災で原稿とともに焼失したことも、茨城県人としては縁の符合を感じざるを得ない。
アダム・スミス輪読会
武井氏がこれほどまでに信三博士とのつながりを大事にしていたのは、東京高商教授・福田徳三(1874~1930年)の千駄ヶ谷宅でのアダム・スミス輪読会(福田が慶應義塾大学教授だった1905~18年ころか?)に、2人が学生として同席して以来の関係性に由来するようである。
ちなみに、武井氏は1911年(当時は中主計)、英国王ジョージ5世戴冠祝賀で英国を訪れた際、スミスの生地・カーコーディに足を延ばしたが、スミスの痕跡はほとんど残っていなかった。しかしその後、案内した現地の人たちによってスミス顕彰の動きが始まったようである。このエピソードは、小泉信三著『読書雑記:アダム・スミス』(文藝春秋新社、1948年)に記されている。(専修大学名誉教授)






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