水曜日, 8月 13, 2025
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2110年の世界はどうなっている?《ハチドリ暮らし》52

【コラム・山口京子】わが家の階段を一歳過ぎの孫が両手両足を使い上っていきます。少し前まではハイハイだったのに…。厚生労働省の「2024年簡易生命表」によると、24年に生まれた男の子の平均寿命は81.09歳、女の子は87.13歳ということです。ということは、平均的な男の子は2105年、女の子は2111年まで生きることになります。

そのころは一体どんな社会になっているのか。そんなことを思うと不安と希望が入り混じります。今大人の私たちには何ができるのでしょうか。例えば、戦争で犠牲となった人々を支援する。なぜ戦争が起きたのか歴史構造や国際関係を知る。原子力発電の仕組みに無知だったことを反省して東京電力福島原発事故のことをきちんと考える…。

写真は筆者

私はいくつかの団体の会員となり、その活動の報告書を読ませてもらっています。一つは、中村哲医師のパキスタンでの医療活動支援を目的に結成されたペシャワール会です。中村医師が設立したPMS(平和医療団・日本)のアフガニスタンでの灌漑水利事業なども支援しています。彼は「私たちはアフガニスタンを救援するなどと大きなことは言いません。その日その日を感謝して生きられる、平和な自給自足の農村の回復が望みです」と述べていました。

二つめは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民救援活動です。収奪的で膨張主義的な大国の思惑により、難民が生みだされています。1991年から2000年まで高等弁務官として活動した緒方貞子さんは「必要に迫られて日本に来る難民の受け入れには寛大でなければなりません。そういう人たちにもう少し真摯に対応する必要があります」と言います。

三つめは、政府や産業界から独立したNPO法人原子力資料情報室です。原子力利用の問題点に関する資料を集め、そこで得られた情報を発信し、市民による脱原発活動を支援しています。設立者の高木仁三郎氏は「問われているのは、科学技術総体とそれにかかわる科学技術者の質である」と言います。平和で持続的な地に足のついた暮らしの在り方とは? (消費生活アドバイザー)

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戦死した兄思い玉音放送聞いた【語り継ぐ 戦後80年】

つくば市 宮田米子さん(93) つくば市北条に住む宮田米子さん(93)は、満州事変が起こった1931(昭和6)年、小田村(現在、同市小田)の農家に生まれた。3人の兄がおり、旧姓は宮川。戦時中は地元にあった国民学校高等科(現在の中学校)に通った。終戦は14歳の時、当時の事はよく覚えているという。 「農家だったから食べるものにはさほど困らなかった。でもコメに麦を8割混ぜた8分の麦ご飯で、おかずは野菜くらいしかなく、ぜいたくはできなかった」と振り返る。当時、農家でない人は、クリやジャガイモを入れ、かさを増して食べていたという。 宮田さんは尋常小学校を出て国民学校高等科に入った。全生徒は30人ぐらいで、近隣の田宮、北太田、山口からも通っていた。小田に住む人の中にも越境して北条の学校に行く子もいた。当時の北条は、石岡、土浦と並ぶ大きな物資の集積地だったということもあった。 国民学校は日中戦争後の1941年に発足した制度で、教育全般にわたって教育勅語に示された皇国の道を修練させることを目指した。それまでの尋常小学校が国民学校初等科、高等小学校が国民学校高等科になり、戦時色がより一層強まった。 「最初は普通に勉強していたが、戦争が進むと、授業も少なくなっていった」という。終戦を迎える年の1945年4月からはまったく授業は行われず「食料増産のための、農作業が主となっていった」と振り返る。 寝転がってはだめ 志願して入隊した次兄は飛行機乗りで、無線通信担当だった。「飛行機から人の姿はよく見える。隠れるときは寝転がってはだめ、しゃがんでうずくまっていろ」と、帰省した際、次兄に忠告された。 小田地区には大きな戦禍はなかったが、それでも登校時などに空襲警報が鳴ると、怖くて(筑波鉄道筑波線の)常陸小田駅の駅舎(現在は小田城跡歴史ひろば)に隠れた。近くの山口地区に爆弾が落ちたとか、機銃掃射があったという話を聞いていたそうだ。それでも筑波山周辺地域で空襲で亡くなった人はいなかった。 筑波地区に初めて空襲警報が鳴ったのは、1942(昭和17)年3月5日だったのを覚えている。北条近くの作岡村(つくば市作谷)には、落下傘部隊やグライダー部隊の訓練が行われた陸軍の西筑波飛行場があり、戦局が進むと頻繁に空襲警報が鳴るようになった。特にアメリカ機動部隊の艦載機1200機が関東各地を空襲した1945(昭和20)年2月16日のものは大きく、朝から夕方まで外出が禁止された。 フィリピンで戦死 長兄の宮川善一は1944(昭和19)年末に赤紙(召集令状)により徴兵され、9カ月後、フィリピンで戦死した。終戦間際、23年の生涯だった。 天皇が終戦を告げた8月15日の玉音放送は、兄の生死がはっきりせず、何か分かるかもしれないと、家族全員で自宅のラジオの前に集まり聞き入った。当時農家でラジオを持っている家は少なかったが、どうしても放送が聞きたくて購入した。近所では兄弟全員が戦死したという家もあったが、兄の死は、まさか家族に戦死者が出るとは思わず、長男ということもあり、生涯忘れられない出来事となった。80年たった今でも、当時を思うと言葉が出なくなり、涙が流れる。 戦後は、国民学校高等科を出て、その後、家の手伝いをして過ごした。ヤミ米が流出していたため、多くの農家と同じように調査が入ったりしたそうだ。 1952(昭和27)年、北条地区の宮田家に嫁入りし、一男一女をもうける。「戦争を体験した人はみな、90歳以上になってしまった。戦争は本当に怖かった。戦後はだんだんおいしい物も食べられるようになった。やはり平和が一番だ。そういう時代がずっと続いて欲しい」と昔を振り返りながら語る。(榎田智司) ➡戦後79年の聞き語りはこちら ➡戦後78年の聞き語りはこちら ➡戦後76年の聞き語りはこちら ➡戦後75年の聞き語りはこちら ➡戦後74年の聞き語りはこちら ➡戦後73年の聞き語りはこちら

ペットの熱中症にも注意を 土浦の動物病院が呼び掛け

冷房、犬猫は24度程度が最適 あす13日から厳しい暑さが戻るといわれている。熱中症は人間だけでなく、犬や猫もかかり、命に関わる恐れもある。土浦市中高津の徳永動物病院院長の徳永大和獣医師によると、最近は日中の散歩は避けるなどペットの熱中症に注意をしている飼い主が多く、急患のペットはほとんど出ていない一方、「ここ2、3年は、冷房の温度設定がペットにとって高いことによるペットの熱中症が増えていると実感している」と語り、注意を呼び掛けている。 軽い熱中症から悪化 徳永さんは「犬や猫は体が被毛に覆われているだけでなく、人のように汗をかいて体温を下げることができないため、人よりも暑さに弱く熱中症になりやすい」と話す。冷房の温度は人間にとって26~27度程度が快適だが、ペットにとっては暑過ぎて軽症の熱中症を招く。「ペットには24度程度が適切だ」という。 高温のため6歳、7歳を超えた高齢の犬や猫が、軽い熱中症から1週間ほどたって悪化する症例が多くなっているという。症状としては「食欲がない」「吐く」「下痢をする」といった、体温が上がったことによる胃腸炎などがある。 やけどと同じ 徳永さんによると、症状が出たら動物病院に行くことはもちろん、治療後は冷房でしっかり冷やすことが大切だという。「熱中症はやけどと同じ。動物病院での1回の注射や冷却で治るものではない」とし、「1、2日涼しい場所で過ごして元気になったように見えても実は治りきっていない」と話す。油断して冷房の設定温度を人間が快適な27℃に上げたことで再び悪化し命にかかわるケースもあるため、「ペットには、冷房は人間が快適だと思う温度よりも低い24℃に設定するとよい」と話す。 8日の夕方、犬の散歩をしていた土浦市の女性は「暑い日が続いているので犬の熱中症予防のため、冷房を24時間入れたままにしている。朝夜の散歩も首を冷やすネッククーラーをつけている」と語った。猫を飼っているつくば市の山口佐智子さんは「猫はいつも勝手に涼しいところに行っている。しかし今年は格別暑いので猫の体調には気をつけている」と話す。 茨城県では環境省が作成したペットの熱中症予防ポスターを印刷、県内市町村に配布している。さらにX(旧ツイッター)の茨城県生活衛生課動物愛護担当のアカウントで、ペットの熱中症に関する注意喚起を促している。土浦市は、県から配布されたポスターを同市役所環境衛生課の窓口に掲示して注意を呼び掛けている。つくば市もポスターを庁内に掲示するとともに、同市のホームページに「犬の熱中症に注意」というページを作って周知している。(伊藤悦子)

素描《続・平熱日記》183

【コラム・斉藤裕之】オス2匹メス1匹の茨城県産カブトムシを持って、高円寺の長女宅を訪ねた。東京駅で中央線に乗り換えると、停車するホームで何度か見かけた「素描」と大きく書かれたポスターが気になる。「素描」とは一般に「デッサン」や「クロッキー」という言葉に相当するものだと思うが、実にいい言葉だと思う。 まあ簡単に言うと、鉛筆などの単色で描かれた絵。構想やアイデアを描いたものが多い。私自身はデッサンがあまり得意ではなかった上に、少し修行のようなニュアンスも感じられて少々苦手意識のある漢字二文字。しかし、他人の描いた素描を見るのは好き。なぜなら素描にはその人のものの見方、試行錯誤の様子、息遣いやリズムのようなものまで感じられるからだ。 描かれたものが「素(そ)」であると同時に、描き手の「素(す)」が見えてくる。例えば、ダ・ビンチのモナリザを見るよりも素描を見る方がダ・ビンチのことがよくわかる。 さかのぼること数週間。ある日、引き出しの中から「銀筆」を見つけた。鉛筆ではなく銀筆。「シルバーポイント」と呼ばれるこの銀筆は、鉛筆の芯の部分が直径2ミリほどの銀の棒でできていて、西洋で古くから使われていた素描用具。その柔らかい表情と、時間の経過とともにやや褐色に変化する色合いが銀筆の魅力。 ところがこの銀筆は白い紙には何も描けない。銀よりも固いものの上にしか描けないので、銀筆で絵を描くには準備が少々面倒なのだ。 そう思いながら、ネットで「シルバーポイント…」と検索したところ、紙の上に白いパステルを塗って銀筆で描く方法が紹介されていた。ならばと再び引き出しの中を探すと、何十年も寝かしてあるパステルを発見。いつか値引きされていたのを買って、これまた長い間使っていなかった小さなスケッチブックも発掘。これで材料は一応そろった。 スケッチブックを開きパステルを塗る。優しく線を引くと、銀筆の淡い筆跡が心地よい。しかし、繊細で不自由な素材である分それなりの画力も求められる。文字通り素になって描く。ということで、この夏、いつもは絵を描く道具は一切持っていかない山口への帰省に、銀筆一本とパステル、小さなスケッチブックを携えることにした。 スウェーデン国立美術館展 ちなみに「素描」と大きく書かれたポスターは、国立西洋美術館で開催中のスウェーデン国立美術館コレクション展のものだった。かの美術館は30年ほど前の夏に友人を訪ねた折に見て回ったことがある。これも何かの縁か。久しぶりに上野に行ってみるか。 虫好きの上の孫は、心待ちにしていたカブトムシを手にたいそう喜んでくれた。方や、もうすぐ2歳になる下の孫の方は恐竜が好きなんだと。ならば、次のミッションは角が一本増えて木彫「トリケラトプス」か。(画家)

復刻「陣中占ひ」で記憶の糸たぐる 土浦 石田和美さん【戦後80年】

戦前の記憶の糸をたぐる手札玩具がある。「陣中占ひ」という30枚組のカードだ。戦後80年の夏、その復刻版制作と普及活動に取り組む土浦市在住の女性が「現物以外なんの記録もないのでご存じの方がいたら情報を寄せてほしい」と呼び掛けている。 関係資料探しあぐねて 女性は、茨城県を中心に戦没者の慰霊顕彰活動を行う任意団体「ENISHIWORK(エニシワーク)」の代表を務める石田和美さん(47)。インターネットで資料収集中、偶然に目に留めた「陣中占ひ」を入手した。縦長の紙製小箱には筮竹(ぜいちく)を構えた易者(えきしゃ)のイラストが描かれ、日の丸のような図案をはさんで左から右へ「ひ占中陣」の文字がある。 小箱の中には、色刷りの絵札5枚とモノクロの文字札25枚が入っていた。絵札には穴あきの小窓が複数箇所にあり、文字札には全体として意味をなさない縦組みの文字列が印刷されていた。文字組といい絵柄といい、ほぼ戦前のものに違いないが、転売を経て入手した出品者は元の出どころがわからないという。「陣中占ひ」でネット検索してもヒットはせず、各地の戦争資料館やおもちゃミュージアムなどに問い合わせても関係資料は残っていない。立命館大学国際平和ミュージアム(京都市)が現物を所蔵していたが、聞き取りをした戦争体験者から受け取った学芸員によれば「慰問袋に入っていた」という話だった。戦前、1937(昭和12)年ごろ、日本玩具統制協会がおもちゃに合格証を与える登録制度を設けており、「断易」ということばから、1940(同15)年ごろに作られたという見方が出来たものの、制作者や発行元までは突き止められなかった。 戦争の要素一切なく その遊び方ー。25枚の文字札から1枚を選んで上に5枚の絵札を順番に乗せていく。すると絵札の穴あき部分から下の文字列が現われる仕掛けになっていて、運勢、願望、待人、縁談、身の上の展望を読み取れる。「金銭入り易き日なりむだせぬ様心掛けべし」(運勢)、「女には吉なれども男には凶となるべき縁」(縁談)等々。「陣中」とあっても、「占い」に戦争の要素は一切ない。箱には「兵隊さんのマスコット」とあった。 https://www.youtube.com/watch?v=L_9GzZ6SHiw 入手した石田さんは「すごい。面白い。至極の極みだと感動を通り越し、すっかりほれ込んでしまった」そう。普及に向けて復刻版を制作しようと、一昨年から権利関係の調査を始めたが素性は分からず仕舞い。商標権、著作権の扱いについて弁護士と相談するなどして、作業を進めた。 世代つなぐコミュニケーションツール 石田さんは重巡洋艦「羽黒」の副長を務めていた大叔父が1945(昭和20)年5月16日のペナン沖海戦で撃沈され、艦と運命を共にしたと聞かされ育った。戦後30年たち生まれた「戦後30年世代がつなぐ慰霊顕彰活動」を掲げ、同世代の仲間らと軍関係者や遺族に話を聞くなどの体験を共有し、軍跡ガイドや慰霊祭ボランティアを務めてきた。 その活動の中、復刻版「陣中占ひ」を制作した。昨年2月、ENISHIWORK名義で商標登録を行い、販売を開始した。絵札は絵柄をそのままに彩色のトーンを変え、文字札はフォントを見やすくしたが、旧仮名遣い、文語調は原典のままにした。左から右への文字組みを含め、今の若い人に見せても「苦情あるべし」とか「来ることかなはず」とかの言い回しが伝わらないことにもどかしさを感じている。石田さんは普及活動を通じ、「伝えていくことの意味を感じるコミュニケーションツールにしていきたい」というのだ。「戦後80年、占いを作った人も、慰問袋に詰めた家族も、遊んだ兵隊さんも多くが亡くなって、記録ばかりか記憶まで消えかかっている。私たち世代が伝えることで、昔の漢字を読めない若い人たちにも忘れられないようにしたい」と石田さん。「陣中占ひ」について「ご存じのことがあれば、ぜひ連絡をしてほしい」と呼び掛けている。(相澤冬樹)◆制作した復刻版「陣中占ひ」はオンライン販売のほか、予科練平和記念館(阿見町)、筑波海軍航空隊記念館(笠間市)、鹿島海軍航空隊跡地(美浦村)の各ミュージアムショップで取り扱い中。価格は4400円(税込み)。今年になってお守りとして携帯できるクリアカード製のバージョンも制作した。同2200円。販売サイトはこちら。問い合わせは電話080-1018-1124(ENISHIWORK事務局)へ。