【コラム・先﨑千尋】茨城県内で「サツマイモの神様」と呼ばれてきた白土松吉に、那珂市から名誉市民の称号が贈られた。那珂市は1月に市制施行20周年の記念式典を開いたが、この席で、曽孫の白土史生さんに先﨑光市長から名誉市民証が渡された。同市の名誉市民は5人目で、民間人としては初めて。
松吉は1881(明治14)年に那珂郡勝田村(現ひたちなか市)に生まれ、同郡湊町(現ひたちなか市)の白土家の養子になり、水戸農学校(現水戸農業高校)を卒業後、那珂郡役所に入り、同郡農会技手を兼務した。農会とは、農業の技術的・経済的発展と農業改良をめざした組織。
那珂郡は畑作地帯で、陸稲が盛んだった。陸稲は、夏に雨が降らないと収穫が皆無になることもあり、不安定な作物だった。松吉はこれを救うのはサツマイモだと考え、サツマイモの増収栽培の研究を始めた。
それと同時に、同郡前渡村村長の大和田熊太郎とともに、冬場の農閑期の副業として甘藷(かんしょ)蒸切干(干し芋)の製造を農家に奨励していった。郡内の篤(とく)農家や農学校、小学校にサツマイモの試験地、試作地を設け、増収技術の研究を重ねた。
目標は千貫(3.75トン)取り。当時の平均反収の3倍だった。研究の甲斐(かい)あって、1926年にとうとう千貫増収法を確立した。その後も、技術の合理化、作業の簡略化などの工夫を重ね、1937年に、1農家3人の労働力で1~2ヘクタールのサツマイモ栽培ができる「千貫取り白土式甘藷栽培法」を確立した。
松吉が研究を始めて30年の歳月が流れ、この年に松吉は『甘藷作論及栽培法』(水戸市協文社)を出版している。

「いも類大増産運動」が始まる
戦争末期の1944年、国は「いも類大増産運動」に取り組み、サツマイモの苗を2000万本首都圏に送る計画を立てた。東茨城郡内原村(現水戸市)の日本国民高等学校などで実施に移し、松吉はその指導に当たった。
仕事に没頭し、湊町の自宅にはほとんど帰らず、農会事務所近くの旅館で生活し、身なりは一切構わず、どこに行くのもはだしと自転車。サツマイモ増産のために寝食を忘れ、東奔西走の毎日。名誉や地位、利益には見向きもしなかった。松吉の素朴な人柄とひょうきんな行動は農家の人に愛され、大臣や知事でもすべて「君づけ」で呼んだと伝えられている。
48年に第一線を退き、弟子たちが用意してくれた白土甘藷研究所(那珂郡芳野村、現那珂市)で晩年を過ごした。
サツマイモ、干し芋だけでなく、那珂川沿岸の農業用水の一つ、小場江堰(せき)改良工事にも私財を投じ、大きな功績を上げている。55年には、甘藷栽培の改良と水田灌漑(かんがい)用水路の新設の功績により黄綬褒章を受章し、亡くなる直前の56年11月、当時の那珂町役場構内に白土松吉翁顕彰碑が建立された。
私は2012年に松吉の評伝『白土松吉とその時代』(茨城新聞社)を出版していることもあり、松吉が那珂市の名誉市民に選ばれたことを自分のことのようにうれしく思っている。(元瓜連町長)