月曜日, 10月 12, 2026
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災害時は被災者や応援者受け入れ コンテナホテル、谷田部IC近くにオープン

東日本大震災きっかけ

常磐道谷田部インターチェンジ近くのつくば市台町にコンテナ型のビジネスホテル「HOTEL R9 The Yard(アールナイン・ザ・ヤード)つくば」が26日オープンする。開業を前につくば市は1日、同ホテルを運営するデベロップ(本社・千葉県市川市、岡村健史社長)と、災害時に同コンテナを市の災害対応に利用する協定を締結した。

災害時は市の要請に基づき、市が被災者や外部の応援人員の受け入れなどに利用する。市によると、県内で同社と災害協定を締結したのはつくば市が13市町村目になるという。

コンテナホテルは2011年の東日本大震災をきっかけに誕生した。コンテナメーカーでもある同社は震災後間もなく被災地に入り、コンテナ型備蓄倉庫を寄贈したり、復興作業をする従業員向けの仮設宿泊施設を建設した。岡村社長は、被災者が多くの避難所で生活に大きな負担を強いられている状況を見たとし「宮城県南三陸町に支援に行き、避難所で子供がじっとしていられなくて家族が外で車中泊している姿を見た。石巻市から作業員の宿泊施設として建設してほしいと要請を受け、長期間、快適に過ごせることが分かり、これだったら成り立つと思った」と振り返る。

石巻市で利用されたコンテナの宿泊施設を2017年、栃木県佐野市に移設してコンテナホテルとしてオープンしたのが始まりで、現在はつくば市も含め全国98カ所に3611室が展開されている。これまで、新型コロナ感染拡大時にトレーラーやトラックで移動させ、都内の病院でPCR検査施設として利用されたり栃木県では臨時の医療施設として利用されるなどした。

コンテナホテルの室内

施設は一つのコンテナ内が一つの客室になっていて、各部屋にベッド、ユニットバス、冷凍冷蔵庫、電子レンジなどが備えられている。つくばは敷地面積約3000平方メートル。客室はツインが7室とダブルが49室の計56室ある。駐車場は56台分を備える。各部屋の広さはいずれも13平方メートルで定員は各2人。平日は周辺の工業団地などのビジネス客、土日は観光客やレジャー客などの利用を想定している。

備蓄を推進

防災や減災への新たな取り組みなどを掲げる一般社団「地方創生戦略研究所」(代表・井手義弘元県議)の紹介で災害協定締結に至った。同研究所は、災害時に仮設住宅としていち早く利用できる移動可能なモバイル型仮設住宅の備蓄を進めたいと、自治体との防災協定締結を推進している。

災害協定を示す(左から)デベロップの岡村健史社長とつくば市の五十嵐立青市長

19日は現地見学会が開かれ、五十嵐立青つくば市長らがコンテナホテルを見学した。五十嵐市長は「全国でこれだけ災害が頻発している中で、全国各地に応援職員を派遣することも多い。コンテナホテルは平時はホテルとして運用し、有事は被災者も活用できる。全国に安心安全と経済活性化を広げてほしい」とし、岡村社長は「レスキューホテルとしてこれまでに7度、要請を受けて出動した。有事には動かして、被災した場所に行く存在であることを知ってもらい、お役に立ちたい」などと話した。

災害時に利用する場合、費用は市が市が負担する。利用料は1室1日7000円で、移動して利用する場合はトラックやトレーラーでの運搬費用がかかる。市危機管理課は「災害時に指定避難所の利用が難しい被災者や、応援に来る職員の受け入れなどでの利用を想定している」としている。

同社のコンテナは、タイヤが付いて災害時にトレーラーで移設する車両型と、釣り上げてトラックの荷台に乗せて移設する建築型がある。つくばの56室はいずれも建築型になる。災害時に移設先で仮設住宅などとして利用する場合は、電線や上下水道につなぐことが必要になる。(鈴木宏子)

◆「HOTEL R9 The Yardつくば」の宿泊料金はダブルルームが1人1泊6200円、2人8700円、ツインルームが1人6200円、2人9700円。詳しくは同ホームページへ。

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