火曜日, 11月 25, 2025
ホームつくばもっと⾃由に「まぜこぜ」社会を 東ちづるさん つくばで映画上映

もっと⾃由に「まぜこぜ」社会を 東ちづるさん つくばで映画上映

21日から

全盲の落語家、ダウン症のダンサー、小人(こびと)症の手品師、ドラッグクイーン−。 

自身の特性を生かして国内外で活躍する「マイノリティ・パフォーマー」たちが出演する映画「まぜこぜ一座殺人事件~まつりのあとのあとのまつり~」が21日から、つくば市下原、つくばユーワールド内の シネプレックスつくばで始まる。作品を企画・構成・キャスティング・プロデュースしたのは、俳優の東ちづるさん。制作は、東日本大震災をきっかけに東さんが立ち上げ、代表を務める一般社団法人「Get in touch(ゲットインタッチ)」が担った。表現活動を通じて、すべての人が違いを超えて自由に暮らせる「まぜこぜ」の社会をめざす同団体にとって、初めての映画作品となる。

映画は、東さんが座長を務めるパフォーマンス集団「まぜこぜ一座」が2023年に上演した舞台作品「歌雪姫と七人のこびとーず」の打ち上げ会場を舞台に進むドラマ作品。控え室から響く悲鳴に座員たちが駆けつけると、息絶えた座長の東さんの姿が。そこから、容疑者となった座員たちの本音があふれ出す。マイノリティとして今の日本に生きる彼らが抱く疑問や怒りを、ユーモアとともに笑いに変える。見る人に「まぜこぜの社会」とは何かを問いかける「社会派コメディサスペンス」だ。

映画のチラシ=Get in touch提供

東日本大震災、避難所で起きたこと

映画を制作した「Get in touch」の始まりは2011年。東日本大震災がきっかけだった。東さんは、被災地で起きたことが忘れられないと言う。

「避難所で、マイノリティーの人たちが追い詰められている現状を聞いた。車いすの人が『ここはバリアフリーじゃないから、他の避難所に行かれたらいかがですか?』とやんわり言われたり、パニックを起こした障害のある子どもを怒る人がいたり、障害のある子を持つ家族が避難所に入るのを遠慮して車で過ごしたり。そういうことがたくさんあった。でも、全くニュースにならなかった」

震災後、復興に向けた前向きな物語がメディアで伝えられる中で、置き去りにされる人たちがいた。「ニュースにして欲しい」とメディア関係者に訴えても、「デリケートなことだから」と受け入れられなかったという。

「『デリケート』ってなんだろうと思った。マイノリティーの人たちをデリケートな存在にすることで、この社会にいないものにしているんじゃないか。避難所での出来事は、今の日本社会を最もよく表していると感じた」

震災直後、東さんは、被災地への支援を訴えるアート活動をする障害者に協力し、被災地の福祉施設を支援するなどの活動を展開した。さらに、アートや音楽、映像、舞台などのエンターテインメント活動を通じて、違いを超えて多くの人がつながっていこうと団体を立ち上げ、「つながり」を意味する「Get in touch」と名付けた。法人化したのは2012年だ。

「私たちの活動は、見る人をワクワクさせ、楽しい気持ちにさせるエンタメにしたい。エンタメにして、人を集めて、楽しむ。でも、帰り際はモヤモヤさせる。結果的に、みんなが知ってしまう。笑いをとりながら、見る人に考えてもらうものを作ろうと思った」

映画の一場面=Get in touch提供

共生社会の実現目指し

今の社会の問題点を東さんは「マジョリティーが作ってきた社会」にあるとし、「建物や道路、どれ一つとっても、見えない人、聞こえない人、歩けない人を想定していない」と指摘する。それは自身が病を患った時にも感じたことだと話す。2020年、東さんは出血性胃潰瘍を発症し、治療を受けている。

「私が自分の病気を公表すると、取材に来る人の中に、私を泣かせようとする人がいた。可哀想な人をつくろうとしたのだと思う。マジョリティーが無自覚に、都合のいいようにつくってきた社会だから、マイノリティーは可哀想、気の毒、守らなければいけない人たちにしてしまう。気持ちが悪いと思った。そんなことを吹き飛ばしたいという思いがどんどんふくらんできた。そんな思いもあって、マイノリティ・パフォーマーの彼らと一緒に面白いものを作ろうと、みんなでいろいろな話をしてきました」

Get in touchが企画するイベントで必ず行っているのが、手話通訳者をつけるなど障害への配慮をすることだ。「私たちの活動には、いつも手話通訳をがっつりつけている。これが、みんなが楽しめるということ。スタンダードにならなければいけないですよね」と東さんは言う。今回の映画でも、目や耳が不自由でも映画を楽しめるよう、バリアフリー字幕や音声ガイド、デジタルパンフレットを用意する。

「是非、気軽に来てください。お得で、楽しく、面白く、見る人の常識や普通を覆す作品です。笑いや感動、気づきだけでなく、見終わった後に残る『モヤモヤ』を、是非、持ち帰って欲しい」と話す。(柴田大輔)

◆映画「まぜこぜ一座殺人事件~まつりのあとのあとのまつり〜」はつくば市下原370-1 つくばユーワールド内 シネプレックスつくばで21日(金)~27日(木)まで、上映時間は午後6時から。初日は上映後に、出演者で声優の三ツ矢雄二さんと監督の齊藤雄基さんによるアフタートークイベントが開かれる。料金は一律1500円(税込)で映画パンフレット付き。バリアフリー字幕、音声ガイド、デジタルパンフレットを用意する。アフタートークには手話通訳者がつく。詳細は「まぜこぜ一座殺人事件~まつりのあとのあとのまつり」公式サイトへ。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

掃いても、掃いても《短いおはなし》45

【ノベル・伊東葎花】 私は、イチョウの木でございます。神社の参道へと続く道に、たくさんの仲間と一緒に立っております。このあたりでは、少しばかり有名な並木道でございます。 青々と茂っていた葉は、秋が深まると黄金色に染まります。それはそれは素敵な散歩道になりますのよ。葉っぱたちは、風にはらはらと舞い落ちて、地面に黄色のじゅうたんを敷き詰めます。ため息が出るほど美しい晩秋の風景ですわ。 ところでこの春、神社の長男が嫁をもらいました。その嫁が、まあ、きれい好きと言いますか、風情がないと言いますか、せっかくの美しい葉っぱたちを箒(ほうき)で掃いてしまうんです。竹箒でザッ、ザッ、ザッ、と葉っぱを集め、ゴミ袋に入れるんです。何ともまあ、風情のない現代っ子でございます。 こちらとしても、負けるわけにはまいりません。 「おまえたち、あの女めがけて散りなさい」 私が命令すると、葉っぱたちは嫁をめがけて、まるで矢のように降りました。 「ああ、もうっ、掃いても、掃いてもきりがない」 嫁はとうとう掃くのをやめて、家に帰って行きました。勝ちました。 …と思ったのもつかの間、今度は、大きな熊手を持って現れたのでございます。あんなものでかき集められたら、たまったものではありません。私たちは、嫁がいなくなるまで待って、ふたたび葉っぱの雨を降らせました。負けるものですか。 そんなバトルが、数日続きました。嫁がどんなにきれいに掃いても、翌朝にはまた黄色のじゅうたんが敷かれます。それでも嫁は懲りもせず、毎日箒を持ってやってくるんです。こういうのを、イタチごっこというのかしら。 次の日は、朝から雨でした。よく降る雨でございます。並木道を、レインコートを着た小学生が走って来ました。通学路ではないけれど、おそらく学校までの近道なのでしょう。遅刻しそうなのか、赤い顔をして、一生懸命走っています。子供の長靴が葉っぱを踏んだ時、つるりと滑ってバランスを崩しました。 「まあ大変」 私は、とっさに枝を伸ばして、子供を抱き上げました。子供は、転ばずにすみましたが、よほど驚いたのでしょう。大きな声で泣きました。 それを聞きつけて、嫁が走ってまいりました。 「滑っちゃったのね。気をつけて。走っちゃダメよ」 優しく頭をなでて、女の子を見送りました。そして私の幹に手を当てて、誰にともなくつぶやいたのでございます。 「きれいなんだけど、滑るんだよね」 嫁は、黄色の葉っぱをひとつ拾いあげ、指で優しく汚れを落としたのでございます。 「雨が止んだら、また掃かなくちゃ」 あら、宣戦布告とは頼もしい。 でもね、ごらんなさい。もう葉っぱが、いくらも残っていませんの。もうすぐ12月ですもの。 「どうぞ、好きなだけお掃きなさい」 あら、私ったら…。どうやらこの嫁が、少しだけ好きになったようでございます。 (作家)

スズメの記憶二つ《鳥撮り三昧》7

【コラム・海老原信一】今回はスズメの話を二つしてみます。一つは、野鳥の観察・撮影を始める前のことです。小学生3人の子供たちを連れ、栃木県小山市にあった「小山遊園地」へ出かけた際の出来事です。当時、この遊園地は存在感がある施設でしたが、20年ほど前に閉園となり、今は大型ショッピングセンターになっています。 運転席の窓を全開にして、下館から結城を抜け、小山市内を走っていた時、全開した運転席に小さな塊が飛び込んできました。驚きましたが、すぐスズメであるのが確認できました。車内はこの出来事に興奮状態です。 スズメは自分のいる所が本来の場所ではないと思ったのでしょう、フロントガラスに向かい飛び出そうと羽をバタつかせています。私も、まさかスズメが同乗者になるとは想像もできませんでしたが、右手を伸ばし、ダッシュボード上で動けなくなっているスズメ保護できました。ケガはしてないようでしたので、窓から放鳥しました。 もう一つは、野鳥の観察・撮影を始めて10年ぐらい経った時のことです。「花と鳥」という定番の情景を求めて、何日か同じ場所に通っていました。今日で一区切りと思いながら、周りを眺めていると、視界の下方で何かが動き、自分の方に這い寄って来る気配。見ると、1羽のスズメが足元に来てうずくまりました。 人からは逃げるはずのスズメがなぜ? そう思ってよく見ると、足元にうずくまったまま動く気配がありません。目は半分閉じられ、ゆっくりとした呼吸が感じられるほどでした。見るからに弱っており、残された時間の長くないことがわかりました。 足元に寄って来たのは、冷えてきた自分の体を温めたいと人の体温を求めたからではないか? でも私はじっとしている以外になすすべがなく、かなりの時間そのままでいました。やがて動かなくなったスズメをそのまま置き去りにするのが忍びなく、近くのヤブに隠しました。生きている時間を少しでも遅らせることができればと。 二つの記憶。一つは楽しかった記憶。もう一つは切なかった記憶。これからも、野鳥との関わりの中で多くの記憶を残せたらと思っています。(写真家)

いくつかの符合 記憶の継承(1)《文京町便り》46

【コラム・原田博夫】体験・記憶の継承は、意識的に行われる場合もあるが、偶然の場合もある。戦争や東日本大震災などは前者で、しかも社会的な取り組みが求められる。家族・知人の体験の多くは後者で、その発現は一般化しにくい。今回は、私自身の体験を紹介したい。 私の母方の祖父(1888~1976年)は、県会議員(1907~15年)を父に持ち、自身も地元の小学校長・村長を務め、二男五女に恵まれた(私の母は三女)。加えて、進学先の土浦中学(現在の土浦一高)では友人(後に町長)にも恵まれ、その長女を自分の長男(後に町長)の嫁に迎えた。その祖父が、私が土浦一高に進学した際、自分自身の体験を基に、友人との出会いの重要性を語り、激励してくれた。 武井大助と小泉信三のこと その祖父(自身は第7回=1908年3月=卒)は「自分が入学した土浦中学には、立派な先輩たちがいた。とりわけ、武井大助氏(第3回=1904年3月=卒、1887~1972年、東京高商=現在の一橋大学=卒、海軍主計中将。歌人としても知られ、戦後、安田銀行・文化放送社長などを歴任)は、学業成績もさることながら人格も高潔だった」と話してくれた。残念ながら、武井氏の具体的なエピソードを聞きそびれたが、この先輩の名前は記憶していた。 その後、私は慶應義塾に進学し、塾生(在学生)・塾員(卒業生)の必読書『学問ノススメ』『福翁自伝』『海軍主計大尉 小泉信吉』(前2書は福沢諭吉著、3冊目は小泉信三著)などを手に取ってみた。塾長・小泉信三(1888~1966年)は、『…小泉信吉』(1946年、300部限定私家版)で、1942年10月に南太平洋で戦没した一人息子への哀切をつづった。 自身は東京大空襲(1945年5月)で瀕(ひん)死の大火傷(やけど)を負い、『…小泉信吉』の公刊を固辞していたが、没後の1966年、文藝春秋から刊行された(文春文庫、1975年)。 一読では気づかなかったが、再読・三読してみると、信吉主計中尉(戦死後大尉)の死後、武井主計中将・海軍省経理局長が小泉邸へ弔問。信三博士は、海軍省へお礼に伺候(しこう)するなど、信三博士と武井中将の交流エピソードが登場する。この武井氏は土浦中学のあの大先輩ではないか、と思い当たった。しかも武井氏は、信吉中尉が乗船し轟沈(ごうちん)した戦艦・八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦死後少将)と中学同級生だったそうだ。 同書では、学校名への具体的な言及はないが、これは明らかに土浦中学である。歴史上の(偶然の)奇縁をもって、この関係性を明記しておきたい。 武井氏は二度目の弔問の際、「一筋にいむかふ道を益良夫の ゆきてかへらむなにかなげかむ」と詠んだそうである。これは、わが子顕家の戦没を嘆く北畠親房の気持ちにつながるものだ、と信三博士は記している。親房が、南朝・後醍醐天皇の意を体して、筑波山麓の小田に籠(こも)ったことは知られている。さらに、『…小泉信吉』私家本を出す際、編集者の依頼で横山大観(水戸出身)に巻頭の絵(群青で日ノ出の富士)を描いてもらいながらも、戦災で原稿とともに焼失したことも、茨城県人としては縁の符合を感じざるを得ない。 アダム・スミス輪読会 武井氏がこれほどまでに信三博士とのつながりを大事にしていたのは、東京高商教授・福田徳三(1874~1930年)の千駄ヶ谷宅でのアダム・スミス輪読会(福田が慶應義塾大学教授だった1905~18年ころか?)に、2人が学生として同席して以来の関係性に由来するようである。 ちなみに、武井氏は1911年(当時は中主計)、英国王ジョージ5世戴冠祝賀で英国を訪れた際、スミスの生地・カーコーディに足を延ばしたが、スミスの痕跡はほとんど残っていなかった。しかしその後、案内した現地の人たちによってスミス顕彰の動きが始まったようである。このエピソードは、小泉信三著『読書雑記:アダム・スミス』(文藝春秋新社、1948年)に記されている。(専修大学名誉教授)

自動運転バス「レベル4」27年度実現へ つくば市で3回目の実証実験開始

つくば市で21日、公道を使った自動運転バスの走行テストを行う実証実験が始まった。ルートは、つくば駅から筑波大学構内を循環する約10キロの既存のバス路線で、所要時間は約40分。一般の乗客を乗せて1日4便の運行を来年1月23日まで続ける予定だ。同市は2027年度に、運転手不在の状態で、特定の条件下で完全な自動運転が可能となる「レベル4」の実現を目指している。 この実験は、昨年と今年1月に続いて3回目となる。今回はこれまでと同様、状況に応じて運転手が操作を行う「レベル2」での実施となる。 今回は、国の補助金を活用して関東鉄道が自動運転バス車両を新たに購入し、同社のバス路線「筑波大学循環」内のすべてのバス停に停車するなど、新たな取り組みも加わった。また、今年8月にはつくば市を代表として、筑波大学、関東鉄道、KDDIが「つくば自動運転社会実装推進事業コンソーシアム」を設立。民間5社の協力も得て実施されている。 今回使用されている車両は、名古屋市のベンチャー企業ティアフォーによる自動運転EVバス「ミニバス 2.0」。最高時速は70キロ、定員は28人だが、自動運転時は時速35キロ、定員16人で走行する。走行時には8台のカメラと13台のレーザーセンサーが周囲の状況を分析し、事前に設定した走行ルートに従って自動安全システムが交差点やカーブでの停止・発進、加減速などを行う。緊急時には乗車する運転士が手動運転で対応する。この日は通信トラブルが発生し、バス停での停車・発車時などで手動操作に切り替え運行した。 つくば市科学技術戦略課の中島央樹さんは、今回の実証実験について「国は、全国で自動運転サービスの実装を2025年度に50カ所、27年度に100カ所以上とする目標を掲げている。つくば市もこれに合わせ、27年10月に完全に運転手がいないレベル4の実装を目指している」とし、「昨年は6カ所のバス停のみ停車したが、今回は、路線バスと同じ動きをすることを目指し、29カ所すべてに停まるようにした。以前はつくばセンターのロータリー外側から発車していたものを、内側からの出発に変更した」と説明し、「つくば市に限らず、中心部と周辺地域の移動格差が課題となっている。つくばは車が主な移動手段で、交通渋滞や事故が問題になっているほか、交通事業者では運転手不足による減便などの課題もある。自動運転バスの運行を通じて公共交通を地域に根付かせ、こうした課題の解決につなげていきたい」と目標を語った。 同市は今年度当初予算で、国の国庫支出金を財源に、自動運転バスの購入費、自動運転地図作製費、レベル4通信費など約1億3400万円と、自動運転バス年間維持費約1370万円の計1億4770万円を計上した。今年度は実証実験とレベル4許認可申請、26年度は実証実験、27年は定常運行を目指している。(柴田大輔) https://youtu.be/FfSoeYhtxLI ◆乗車料金は無料。QRコードで希望の時間を事前予約する。事前予約がない場合は先着順となり、定員に達した場合は乗車できないことがある。詳しくはつくば市ホームページへ。