【コラム・川上美智子】水戸市は11月22日、台湾の台南市と友好交流都市の締結を行った。米国のアナハイム市、中国の重慶市に次いで3つ目となる友好交流都市である。71名の使節団の一人として参加した3泊4日の台南市への旅は、終戦直後に生まれ、大戦の経験がない世代にとって、日本の植民地時代の歴史を学ぶ貴重な機会であった。
フィリピン海プレートにユーラシアプレートが潜り込み形成された台湾島は、東側は衝突で出来た山脈が南北に続き、西側の平地にいくつかの都市が作られている。台湾は、17世紀にはオランダの統治下、さらに1683~1887年は大陸の清朝の統治下に入り、その後の50年間(1895~1945年)は日本の統治という被侵略の歴史をもつ。
今回訪問した台南市は、清朝時代に首都として栄えた名残がレンガ造りの建造物古跡として各所に残されていた。
視察では、統治下で活躍した若い日本人の足跡をたどった。1人は今回の締結のきっかけとなった水戸市出身の飛虎将軍こと杉浦茂峰少尉である。彼は米軍との交戦で戦闘機が被弾し、台南市集落への墜落を避けて離れた畑まで飛ばし、台湾人の婚約者を残して21歳で命を落とした。
地域の人々は多数の台湾人の命を救った恩人・神として、今は街中である墜落地に廟(びょう)を建てた。訪問団は、廟内で戦前の真直ぐな若者の心に涙しながら、「ふるさと」を歌った。
もう1人は、烏山頭ダムや嘉南大圳の水利施設を造った八田與一である。この水路の完成で、この地域は豊かな農業地帯になったという。石川県出身の彼は、東京帝大土木工学科を卒業後、乗船した船が米軍攻撃で沈没し亡くなる56歳まで、30年間を台湾のダム造営、下水道建設、港建設など重要な土木事業に技術者として貢献した。
日本の技術を台湾に伝え実践した彼の偉業は、台湾の馬英九総統により八田與一記念公園として残されており、烏山頭ダムが見渡せる一角に夫妻の墓と銅像が建てられている。遠く離れた地で、志をもって厳しい仕事に捧げた八田技師の生涯には胸打たれた。戦前の日本の教育は、負の面が強調され、あまりよい印象をもっていなかったが、志高く道徳観や倫理観のある人材育成に寄与していたのであろう。
お互いの声で未来のメロディーを奏でよう
台湾は親日家が多いと言われるゆえんは、現在強く求められている非認知能力(忍耐力、自制心、協調性、意欲など)に長けた人材の活躍によるものであった。
国立台湾歴史博物館も日本人には必見の場である。原住民と外から台湾に渡ってきた人々や支配国とのせめぎ合いや共生の歴史が展示されている。日本の統治下時の教育勅語や修身などの教科書のほか、強要されたであろう日本の生活文化などが展示されている。台湾には日本から20万人を超える官僚や民間人が移住し、日本化が進められたと聞く。展示された当時の品々が我々に訴えるものは大きい。
台湾の小学生の団体が見学に訪れていたが、侵略された自国の歴史をどのように捉えるのであろうか。博物館は「お互いの声で未来のメロディーを奏でよう」と結んでいる。日本の戦争を知らない世代にも、広島や長崎だけでなく、この負の歴史をぜひ見てもらいたいと思った。
両市の友好が深まるよう、多くの県民、市民が当地を訪れることを切に願っている。(茨城キリスト教大学名誉教授、関彰商事アドバイザー)