月曜日, 9月 28, 2026
ホームつくば蚕影山神社と金色姫伝説 養蚕が支えた千年の営み思う絵画展

蚕影山神社と金色姫伝説 養蚕が支えた千年の営み思う絵画展

11月1日からつくばで

養蚕にまつわる歴史を調べ、関わる地域で見た風景を独特の作風でキャンバスに描き込む東京都町田市在住の画家、加藤真史さん(41)の個展「穹窿(きゅうりゅう)航路ー蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還す」が、つくば市千現、ギャラリーネオ/センシュウで11月1日から始まる。横浜市と相模原市に続く3カ所目の開催となる巡回展で、アクリル絵の具や色鉛筆で描いた作品15点ほどが展示される。茨城に残る養蚕にまつわる「金色姫伝説」と、全国の養蚕農家の信仰を集めたつくば市神郡にある「蚕影山(こかげさん)神社」の歴史などを通じて、養蚕が支えた千年以上にわたる人々の営みに思いを寄せる展示になる。

加藤さんは今回の作品作りのきっかけを、かつて関東一円で栄えた養蚕地をつなぐ街道を「シルクロード(絹の道)」と呼んだのを知ったことだと話す。江戸末期から第二次大戦末期にかけて、各地で作られた生糸は東京・八王子市に集められ、貿易港のある横浜市へと運ばれた。養蚕業は明治期、外貨獲得のため国を挙げて進められ、産業に関わる一帯は経済的に繁栄し、近代化する日本を支えてきた。しかしその後、ナイロン製品の普及などにより衰退し、1929年に約220万戸を数えた養蚕農家は、2023年には全国で146戸にまで減少している。

展示作品の一つ「郊外の果てへの旅と帰還#15(横浜本牧八王子鼻)」(加藤さん提供)

「郊外」の広がりと、消える養蚕のある風景

加藤さんは以前から、自身が暮らす街の成り立ちに関心を持ってきた。瀬戸物の産地として知られる出身地の愛知県瀬戸市は、歴史ある街並みが残る一方で、加藤さんが育った地域には、コンビニやファミリーレストランが国道沿いに並ぶ「どこにでもあるような、いわゆる郊外風景」だった。加藤さんは、故郷で見る風景が、全国で同じように広がることに疑問を感じ、各地の歴史を紐解きながら「郊外」について考えることが作品作りの大きなテーマとなった。養蚕にまつわる今回の作品は、加藤さんが2022年から作り続ける「郊外」を巡るシリーズ作「郊外の果てへの旅と帰還」の一環でもある。

「『郊外風景』は敗戦後、都市部の住宅不足から、国が団地を建てて周辺地域に人々を誘導してできたもの」だと加藤さんは説明する。「外貨獲得のために国策として拡大したのが養蚕業。桑畑が一面に広がる風景が各地にあったが、養蚕業の衰退とともに『郊外』が台頭した。各地を歩いて実感したのは、日本中で桑畑が『郊外住宅』に置き換わっていった歴史だった」と語る。

インドとつくばをつなぐ伝説

こうした養蚕と郊外の関係を調べる中で出会ったのが、各地に点在し、養蚕農家が信仰する「蚕影神社」と、その総本社でつくば市にある「蚕影山神社」だ。さらに、現在のインドにあたる天竺(てんじく)とつくばを養蚕にまつわる物語が結ぶ「金色姫伝説」の存在だった。伝説は、金色姫という天竺の王女が現在の日立市沿岸に流れ着き命を落とすと亡骸が蚕となり、筑波山の麓にたどり着いて養蚕が始まったというものだ。加藤さんは、養蚕の「創世記」となる伝説と、近代日本の起こりとなる「シルクロード」の物語を結びつけ、今回の絵画作品とした。

「国を支える主要産業として、多くの人が関わった養蚕業だが、開発が進みその痕跡を見つけるのも難しくなった。養蚕に携わる中で共有されていた文化や、劣悪な環境で働いていた女性の存在を知った。労働するにあたって必要とされた心の拠り所、信仰というものがあったはず」だと加藤さんは言い、「養蚕業に携わってきた多くの人々の内面を、私の個人的な作品を通じて見る人につなげる橋渡しにしたい」と作品への思いを語る。

今回の展示を企画した同ギャリーの山中周子さんは「筑波山麓の方は、蚕を『お蚕さん』と、『お』をつけるくらい養蚕を生きる糧にし、強い思いを持っていた。全国からつくばに関係者が参拝に来ていたという話も残っている。知らない人には知って欲しいし、知ってる人にも是非、新しい気持ちで作品を知って欲しい」と来場を呼び掛ける。(柴田大輔)

◆加藤真史個展「穹窿航路ー蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還すー第Ⅲ期 筑波巡礼篇」は、11月1日(金)~17日(日)の金・土・日曜、千現1-23-4 101、ギャラリーネオ/センシュウで開催。月~木曜は休館。開館時間は金曜が午後3~7時、土日は午後1~5時まで。入場無料。展示に関する問い合わせは、メール(info@neotsukuba.com)で。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho





spot_img

最近のコメント

最新記事

リーグ最終戦を3-0で飾る つくばFC

関東サッカーリーグ2部のジョイフル本田つくばFCのリーグ最終戦が27日、つくば市山木のセキショウ・チャレンジスタジアムで行われ、厚木はやぶさFC(本拠地・神奈川県厚木市)と対戦、3-0で勝利した。つくばの今季最終成績は6勝5分7敗で10チーム中7位。 第60回関東サッカーリーグ2部 第18節(9月27日、セキショウ・チャレンジスタジアム)ジョイフル本田つくばFC 3-0 厚木はやぶさFC前半2-0後半1-0 最終戦こそ3-0の快勝だったが、1年での関東1部復帰を目指したつくばとしては決して納得できる成績ではなかった。1位のtonan前橋との直接対決は1勝1分とはいえ、8位の日立ビルシステムに対しては1分1敗、10位のヴェルフェ矢板とは1勝1敗と、取りこぼしも多いシーズンだった。 「特に強いチームも弱いチームもない中で、勝ちきる力がなく、勝てるはずの試合や引き分けの試合を落とした。得点数も下から2番目と低調だった」と楠瀬章仁監督の分析。「関東リーグもレベルが上がっており簡単ではない。一人一人が覚悟を持って臨むことが重要」と関口訓充は悔しがる。 この日の試合も、立ち上がり10分までは厚木に次々と好機を作られた。「戦術として引き過ぎてしまい、そこを相手に押し込まれた。むしろ捕まえに行くことで相手も嫌がり、戦術的にもシンプルになった。選手たちの微調整もあってうまくはまってくれた」と楠瀬監督。 先制点は前半18分。左サイドで吉田悠人からボールを受けた押久保弘人がドリブルで持ち上がり、クロスに大山晟那が中央で合わせた。「那須(甚有)がニアに飛び込み、自分がその後ろで待っていたら押久保と目が合った。練習パターン通りの得点」と大山。今季は負傷により長期離脱し、8月後半から戦線復帰。「最後に得点でき、やっと帰ってきた気持ちになれた」と今季初ゴールを喜んだ。 追加点は23分。右サイド武原幸之介からの横パスを大山がチョンと前へ送り、中央で押久保がダイレクトで蹴り込んだ。「大山と一瞬目が合って、絶対来ると思っていたら本当にいいボールが来た」と押久保。高校時代に押久保は鹿島学園、大山は明秀日立で直接交流もあり、「抜群のフィーリングというか阿吽の呼吸」の関係だそうだ。「今日は那須、押久保、大山という前線の3人の距離感が非常に良かった。いままで不足していた中央からの得点ができた」と楠瀬監督も讃える。 後がなくなった厚木は前への勢いを強める。そこを抑えたのが途中出場の菅谷将人らだ。「前半から中盤が下がり過ぎだったので、それを修正しようと気持ち高い位置から入った」と菅谷。チームバランスを取りつつ3点目も狙っていく作戦だ。そして後半45分、右サイドから攻め込んだ石原大樹が倒されてPKを獲得、これを関口がしっかり蹴り込み3点目。良い形で締めくくった。 これでリーグ戦は終わったが、もう1つの大会が残っている。10月24日から宮崎県で始まる第62回全国社会人サッカー選手権大会(全社)だ。つくばは関東リーグ代表7チームに名を連ねているが、2部のチームなので勝ち進んでも上位大会である全国地域サッカーチャンピオンズリーグ(地域CL)への出場権は得られない。「今年は力試しの意味合いが強くなるが、全国のいろんなチームと戦って名を上げるチャンス。いい内容なら来季に向けてサポーターの期待も高まる。結果を目指して頑張りたい」と菅谷主将は意気込む。(池田充雄)

土浦一高哲学部について《放課後の哲学》1

【コラム・大和田哲汰】土浦一高哲学部部長の大和田哲汰と申します。このたび土浦一高哲学部では、今年3月の連載に引き続き、NEWSつくばのコラム欄を担当させていただきます。初回である今回は、哲学部の紹介と、これから執筆する部員の自己紹介をいたします。 哲学と言うと、縁遠い印象がある方もいらっしゃるかと思います。私自身もそのように思っていた時期がありました。さて、哲学の父とされるソクラテスは、対話によって真理を求めようとした人でしたが、土浦一高哲学部の主要な活動の一つは、まさにその対話を通して物事を考えていく、哲学カフェです。 対話の中で、一つの考えがまとまっていったり、日常的な主題から日常そのものの感じ方が変化したりする様子を、私は非常に面白く感じています。 こうして哲学がもたらした新しい考え方に触れることで、私の中で哲学が縁遠いものから身近なものへと変化していきました。これから連載されるコラムをお読みになる皆様にも、新しい感じ方や考え方をお届けできたなら、至上の喜びです。 2022年、たった一人の生徒の哲学への興味から出発した土浦一高哲学部は5年目を迎えました(創部してからは2年目)。私たち哲学部は今年3月、NEWSつくばにて『放課後の哲学』と題された連載をいたしました。部員一人一人が自身にとって切実な問題を、等身大の言葉で綴ったコラムは、部員全員にとって価値あるテクストになったと思っています。 一人一人の言葉の重みが読者の心に伝わったからでしょうか、連載が出版社の目に留まり、書籍化されることになりました。3月の連載の中心となった先輩方は既に引退なさりましたが、私たち1、2年生にも先輩方の考え方や気持ちが受け継がれていると感じています。 私たちの言葉が皆様に届く瞬間を心待ちにしております。 執筆担当部員の自己紹介 連載に先立ちまして、執筆を担当する部員のペンネームと自己紹介を掲載いたします。 月山望(2年):日々の疑問や気になったことを掘り下げるのが好きです。3月のコラムでは友人関係について執筆しました。 秋山節(2年):秋山節です。作曲をしています。音楽から哲学へ興味を持ちましたが、最近は美学だけでなく形而上学への興味もあります。 燐酸藍(2年):インドカレーが好きで、今まで10カ所以上のお店を訪れました。多い時は2週間に1度のペースでインドカレーを食べています。いつか現地でも食べてみたいです。 山菜おこわ(1年):将来は自由気ままに旅したいJK。森など自然が大好きで、哲学部の他に山岳部も兼部しており、つい最近も岩々を踏み締めてきました。(やりたいことがたくさんあって何から手をつければ良いか…) 拙い文章ですが、よろしくお願いします。 常陸宗虎(1年):初めまして、哲学部所属の宗虎です。最近では、日本史や日本文化に興味を持っているので、それらに関するものを書こうと考えています。未熟者ですが、よろしくお願いします。 豆撃ハト(1年):日本語が好きです。ことばや表現や感情について、いろいろと考えています。 自己紹介をお読みいただいて分かるように、哲学部には個性的な部員が集まっています。そんな私たち一人一人が毎月独自のテーマから言葉を編んでいく予定です。私たちの言葉、ぜひお読みください。(土浦一高哲学部部長)

ルーツを探しに大阪の豊中へ《文京町便り》56

【コラム・原田博夫】8月下旬、大阪府豊中市に行ってきました。7年前、同地に転居した家内の姪家族が豊中市原田元町に住んでいると聞き、しかも子供3人が市立原田小学校に通っているということで、原田姓の私としては同地に行ってみたいと思っていました。そこで、阪急宝塚本線曽根駅で下車し、原田元町に行き、原田城跡などを訪ねました。同市教育委員会の原田城跡案内板などによると、同地の歴史は以下のようなことでした。 住宅地をめぐる水路際の案内板「原田井の洗い場」によると、原田集落の縁辺に沿って流れる水路は遠く猪名(いな)川を水源とし、伊丹、尼崎から豊中に至る田畑を潤し続けた、猪名川流域最大級の農業用水路でした。奈良興福寺の「大乗院」に伝わる日記には、1461年、原田庄と田能(たのう)村の間で水争いが生じたことが記されており、約560年前に原田庄が存在していたことが分かります。 近世には、この水路が、酒井、森本、岩屋(伊丹)、田能(尼崎)、勝部、原田、桜塚、曽根、岡山(豊中)の9カ村に利用されていたことから、久名井(くめい)とも呼ばれました。井親(いおや)でもある原田村では原田井(はらだい)と呼ばれてきました。水路の中に見える階段状のものは、夏草が覆っていて確認できませんでしたが、洗い場の水は村人たちの生活用水として利用されていたようです。 「洗い場」案内板から130メートル上ると、巨大な石垣(高さ2~3メートル)をめぐらした一角があり、そこに「記念物(史跡) 原田城跡(しろあと)」の案内板がありました。原田城が造られた年代は明らかではありませんが、室町末期に書かれた「足利季世記」には、1541年11月に管領細川晴元の家臣木沢長政が原田城を攻めたと記載されています。 原田城には、主城の北城と砦の南城の2城があり、この案内板は北城の主郭周りに設置されていています。城の規模は東西160メートル、南北320メートルに及び、西側には土塁が残っており、周囲には堀もあったようです。 わが家の出は西日本のようだ 当時は群雄割拠の戦国の世で、この原田城も多くの史料の中にその名が散見されます。1547年の城主は不明(摂津誌によれば三好日向守)ですが、細川晴元勢3万騎の攻勢によって陥落しています。また、1578年には織田信長による伊丹有岡城に立てこもる荒木村重討伐の際、原田城は信長軍の付城として信長配下の武士(古田織部、中川清秀など)が在番していたそうです。 案内板がある「原田しろあと館」には、昭和初期築造の屋敷(旧羽室家住宅)があり、土日の昼下がり3時間ほど一般公開されています。しかし、訪ねたのが木曜日だったため、立ち入ることはできませんでした。 「どうもわが家の出は西日本のようだ」という、私の父(1920年生まれ)から聞いた話を頼りに出向いてみました。過去帳に孤立して記載されている享徳時代(1452~54)のご先祖がそうだったのかもしれません。ルーツの手掛かりは得られなかったものの、現地の生活ぶりは、500年前も現在も、あまり変わらないようでした。(専修大学名誉教授)

ゲリラ豪雨を再現、災害ドローン飛行実験 防災科研

「飛ばしたい時に飛ばせない」 災害時の被災状況の把握や不明者の捜索、物資輸送などに利用されるドローンが、豪雨や強風の中でも安定して飛行できるかを確かめる公開実験が25日、つくば市天王台の防災科学技術研究所(防災科研)にある大型降雨実験施設で行われた。実施したのは、防災科研と、産業技術総合研究所(産総研)が2024年に設立した産総研先進ドローン技術コンソーシアム(ADTC)。今後の共同研究を通じ、災害発生時に悪天候のため「飛ばしたい時に飛ばせない」現状を改善するため、性能評価に必要なデータの収集を進める。 雨量300ミリ、風速12メートル 防災科研の大型降雨実験施設は、1時間雨量300ミリの豪雨と、風速20メートルを超える強風を同時に再現できる国内最大級の施設。降雨の強度や雨滴の大きさ、雨滴の落下速度を変化させることで、さまざまな強さの雨を自然に近い状態で再現できる。この日の実験では、1時間雨量100ミリの雨を風なしで降らせた後、雨量100ミリに風速12メートルを加えた条件、さらに300ミリの雨と風速12メートルを組み合わせた条件でドローンを飛行させた。 使用されたのは、ADTCと技術提携する双葉電子工業(本社・千葉県茂原市)の産業用ドローン「FMC-02Q」。光学カメラと赤外線カメラを搭載し、防水、防塵、耐風性能を備え、30分から40分程度の飛行が可能とされる。条件を段階的に変えながら飛行させ、機体の安定性や搭載カメラの映像がどう変化するかを確認した。いずれの条件でも、ドローンは安定して飛行を続けた。一方、雨の中でも機体が安定して飛行できたのに対し、カメラの視認性には課題が残った。 災害現場では、被災状況をいち早く把握するためにドローンを飛ばしたい一方、雨や風が強いほど機体の安定性や搭載センサーの性能が低下する。また、メーカーによって耐風性能などの表示や試験条件が異なり、性能を共通の尺度で比較するための試験環境や規格も整っていない。今回の実験に協力した双葉電子工業は、ドローンについてメーカーごとに異なる条件で性能が評価されており、統一された試験環境や規格がないことが課題だとした。 飛行中の情報確認性能向上へ 実験を振り返った防災科研上席研究員の酒井直樹さん(58)は、今回の実験では強い風雨の中での飛行と搭載カメラの性能を確認したと説明。その上で、「災害時にはドローンが『飛べる』だけでなく、飛行しながら何を確認し、どのような情報を得られるかが重要だ。雨滴によってカメラが見えにくくなる問題への対策や、障害物を検知するセンサーの性能評価などが今後の課題」だとし、今回を第1回の実験として、今後は周囲にある物体の距離・位置・移動スピードを正確に測るミリ波センサーや、地形をミリ単位の超高精度な3Dデータにできるライダーセンサーを搭載した機体についても検証する。 酒井さんは、「人命に関わる災害対応時に悪天候で利用するためには、ドローンの性能を正確に理解することが必要になる。そのためにこうした実験が必要になる。課題を吸収しながら、今後の共同研究を通じて誰もが使えるドローンの開発につなげていきたい」と語った。(柴田大輔)