金曜日, 3月 27, 2026
ホームつくば茎崎地区、市政満足度 際立って低く 地域格差【アングルつくば市長選’24】下

茎崎地区、市政満足度 際立って低く 地域格差【アングルつくば市長選’24】下

つくば市政に対する満足度について、市民の意見を把握するため市が2年に一度実施している「市民意識調査」がある。目立つのは、茎崎地区住民の市政に対する満足度が他地区と比べて際立って低いことだ。

調査は市の現状やまちづくりについて42項目を質問している。18歳以上の3000人を対象に、地区や年齢の偏りを無くし無作為抽出で行っている調査で、今後の施策形成と市政運営の基礎資料となる。昨年8月に実施した最新の調査では48.2%が回答した。

つくば市の住み心地を訪ねた設問では「住みやすい」「どちらかといえば住みやすい」と合わせた回答が市全体で83.3%と8割を超えているのに対し、地区別の集計で茎崎地区は63.2%と、市平均より20ポイント低く、地区別では最も低い。住みにくい理由としては、「交通の便が悪い」「日常生活が不便」「公共施設が不足」などが挙げられている。

「つくば市は自分らしく自分のやりたいことができるまちであるか」と設問に対しては、市全体で「そう思う」「どちらかといえばそう思う」を合わせた回答が56.6%なのに対し、茎崎地区は最も低い42.8%。ほかに豊里、筑波地区も50%を下回っている。つくば駅周辺の研究学園地区が66%、TX沿線開発地区が55.4%であるのと比べると、茎崎地区は12~23%満足度が低い。

「市政に市民の声が生かされているか」の設問に対するしては、市全体で「そう思う」「どちらかといえばそう思う」を合わせた回答が26.9%。「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」を合わせた回答は市全体で31.2%あり、「わからない」が39%ある。地区別では、こちらも茎崎地区の満足度が最も低く「そう思う」「どちらかといえばそう思う」は17.3%と市全体と比べ9.6ポイント低く、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」が39.1%と4割を占める。

「つくば市には子供を安心して生み育てられる環境が整っているか」に対する回答も茎崎地区が際立って低いのが目立つなど、市政に対する市民の満足度には、地域格差が歴然とあることが分かる。

茎崎地区は、首都圏に通勤する主に団塊世代のサラリーマン世帯が、1970年代から80年代に一戸建て住宅を購入し、移り住んだベッドタウンで、今、高齢化が進んでいる。今年3月策定の第9期市高齢者福祉計画によると、茎崎地区の高齢化率は38.07%で、筑波地区の38.13%に次いで高い。TX沿線地区への人口増加が進む谷田部地区の高齢化率12.48%と比べ、高齢化率は3倍になる。

市民意識調査で際立つ茎崎地区住民の市政満足度の低さについて、同地区の一戸建て住宅団地、桜が丘に住み、地域の通学路の草刈りやごみ拾い、防犯パトロールなどに取り組むNPO桜が丘おはな会の小原利治さんは「茎崎地区は高齢化が進み、外に出ない人が増えている。交通の便も悪く、陸の孤島にいるように感じている人もいるのではないか。空き家対策に取り組み、企業を誘致し、若い人たちが入ってくるようなまちにしてほしい」と話す。

同地区に約60年前に転居し、住民運動などを通して長年まちづくりに取り組んできたてきた女性(90)は「合併前の茎崎町だったころと比べて、ものを言うリーダーが少なくなったように感じる」と話し「茎崎地区は6号牛久土浦バイパスの工事が進み、常磐線とつくばエクスプレスの両方の駅、常磐道と圏央道の両方のインターチェンジが近く交通の便がいい。まちに企業を誘致し、若い人が住みやすい市営住宅を用意するなど、若い人が希望をもてるまちづくりを構想することが必要」と話す。

茎崎地区について▽市長選に立候補している五十嵐立青氏は、給食レストラン整備、茎崎保健センターの市民利用施設への改修、牛久沼の生態系を生かした活性化などを掲げる▽星田弘司氏は、龍ケ崎、牛久、つくばみらいなどとの連携を強化した牛久沼周辺の活用などを掲げている。(鈴木宏子)

終わり

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

19 コメント

19 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

筑波大「志受け止め尽力」 被告に終身刑判決受け 仏留学の黒崎さん行方不明事件 

フランスに留学中の筑波大学生、黒崎愛海(なるみ)さん(当時21)が2016年に行方不明になった事件で、殺人の罪に問われていたチリ人ニコラス・セペダ被告(35)に対する控訴審判決が、現地時間の26日行われ、仏南部リヨンの裁判所はセペタ被告に対し検察側の求刑(禁固30年)より重い終身刑を言い渡したとして、筑波大の永田恭介学長は27日「今回の裁判により被告人の罪が明らかにされ、処断が下された。これまでの関係各位のご尽力に深く敬意を表し、本学としては黒崎さんの志を受け止め、日仏の学術交流の発展に尽くして参る所存です」などとするコメントを発表した。 黒崎さん(東京都出身)は仏東部のブザンソンに留学中、行方不明になった、事件直後に消息を絶った元交際相手のセペダ被告が殺人容疑で国際手配され、20年にチリからフランスに引き渡されて、殺人罪で起訴されていた。黒崎さんの遺体はまだ発見されていない。

服を着ることの意味とは《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》4

【コラム・2年 マヨラー】なぜ人間は着飾るのか。この問いに対して、寒さから身を守るため、社会的規範に従うためなどといった実用的な回答はいくつもあげることができるだろう。 しかし人間が着飾る理由には、人間の身体と自己像の不安定さという根本的な問題がある(*脚注1)。 ニーチェという哲学者が「各人は各自に最も遠い者である」(*脚注2)と言った。私たちは自分自身を直接見ることはできず、鏡やカメラなどの装置を経由しなければならない。さらに自分の顔に関しては、感情によって表情が意識を超えて変わり、自分の身体を思うままに統制することもできない。身体というのは、とても遠く隔たったものなのだ。 私たちは自分の身体に触れたり、見たりする時に、身体に関して部分的な経験を得て、そのバラバラな身体知覚を自分の想像する「身体像」によってつなぎ合わせて、ようやく身体として理解できる。つまり身体の全体像は想像上でしか現れない。よって自分の身体は、もろく、不明瞭な像、イメージであると表すのが適している。 ではこの不安定な像を強化するためにはどうしたら良いのか。 それは、服を着ることだ。服を着ると、皮膚と布が接触することで、身体の輪郭が皮膚感覚として明確になる。そのため、自分から目視できない体の存在を確かめることができる。服を着ることは、寒さ対策などの機能的な面でも役割を果たしているが、このような心理的な作用も見逃せない。 ここから服を着ることとファッションとの関係が浮かび上がる。この二つの言葉はよく同一視されるが、厳密には異なる。ファッションは「人の目に自分はどう映っているのか」ということを意識し、自己像を表現する行為のことだ。思春期前の子供は大人が選び大人が考えた服を着させられるだけの着せ替え人形にすぎない。思春期を迎えると、与えられた服の着方や組み合わせに何かしらの違和感を持つようになり、服の組み合わせや着方を変える。まさにこの行為こそファッションの始まりだ。着飾ることは、服を着ることとファッションとの交わりに位置する概念だと言えるだろう。 ここで制服について考えてみると興味深い。制服を着るだけで自己に社会的役割や集団への帰属といった意味が付与される。もし制服がなければ、無限の選択肢の中から服を選ばなければならなない。制服はその負担を肩代わりし、自己に余裕を持たせてくれる。それにより持て余した余裕が、着崩し・ちぐはぐに着ること、つまり着飾ることに火をつける。制服自身が、制服という与えられた枠組みを変形する原動力になるのだ。 私自身はシャツの第1ボタンを開けたりスカート丈をやや短くしたりすることを普段行っている。 貴方は、顔や体の整いについて考えたことがあるだろうか。一般的に言うと、顔や体が整っているということは、大きさや形といった、外的基準だろう。しかし私はそれだけではないと思う。整っているとは自分の想像する自己像と、何かを経由して見た自己像との差異が少ないことだと思う。繰り返すが、自分が鏡や写真に映るたび、自分が見る自分は毎回印象が異なり自己像が確立していない。そう簡単に外形が変わることは無いのに、自己像は常に揺らいでいるというジレンマがある。そのような点で服は、身体像の強化や視線の分散をすることで、自分の想像する自己像と実物との関係の緊張を和らげることができる、非常に優れたものなのだ。 やはり、着飾ることもまた、単に服を着るのとは異なる意味で、自己の存在を確固たるものにするための手段だ。 *脚注1 服と身体との関係を考察するに当たっては、鷲田清一「ちぐはぐな身体」(ちくま文庫、2005年)を参考にした。2 ニーチェ「道徳の系譜」序言(木場深定訳、岩波文庫、1940年)

10年ぶり海外視察再開 つくば市議会 800万円計上、市議5人がドイツ・ボーフム市へ

つくば市議会が2026年度、10年ぶりに海外視察を再開することが分かった。市議5人と随行職員ら計9人がドイツのボーフム市を訪問する予定で、旅費や宿泊費などの総額は803万円。市議はビジネスクラス、随行職員はエコノミークラスでの渡航が予定されている。日程や視察先、市議のだれが渡航するかは現時点で未定だという。市長は同行しない。同市議会の海外視察は2017年3月以来になる。 25日閉会した同市議会で一部市議から「物価高や円安、不安定な社会情勢に市民が苦しむ中、血税を投じて海外に行く緊急性も市民の納得も得られない」(山中真弓市議=共産)などの反対意見が出たが、賛成多数で同予算は可決された。 歓待のお礼と招待 同市の議会事務局や国際都市推進課によると、つくば市とボーフム市は2019年に連携合意書を締結し友好都市に準ずる関係にある。ボーフム大学が筑波大の協定校であることが縁という。 昨年4月22~25日、ボーフム市の市長と議員5人、大学と企業関係者ら計21人がつくば市を訪問した。滞在中のつくば市議会との交流は、筑波大関係者らも参加して同23日に催された立食形式のレセプションに、つくば市議会から小森谷さやか副議長が参加、翌24日実施された食事会に、黒田健祐議長、議会運営委員会の塩田尚委員長、神谷大蔵副委員長が参加し意見交換した。 帰国後の昨年5月、ボーフム市からつくば市議会に、訪問時の歓待のお礼と、「ボーフム市に来ていただき、交流を深め、課題を共有したい」などと書かれた招待の書面が届き、招待に応えたいと、新年度予算に約800万円を計上したという。内訳は、議員5人と随行職員4人の航空運賃など旅費と宿泊費が計762万円、手土産代4万円、海外旅行保険代15万円、wi-fi機器賃借料20万円など。 取り止めの修正案否決 一方、定例議会最終日の審議に先立って18日開かれた同市議会予算決算委員会で、川村直子市議(市民ネット)らから、800万円を削除するよう求める修正案が出た。 川村市議は「厳しい財政状況の中、何年も海外視察を中断していた中で、議員の海外視察を再開することに大きな違和感がある。調査したところ、海外視察を行っている議会はほとんどが都道府県や中核市や政令指定都市。一般市では近距離の海外視察はまれにあるが、欧米などの遠隔地はほとんどない」とし「物価高に加え、上下水道や健康保険料税の値上げが続いており、市民感覚からとても受け入れられるものではない。招待いただいているが、市のどのような課題解決のために視察に行くのか、交流以外の目的が明確でない」などと指摘した。 これに対し同委員会では「(訪問は)国際的な互恵関係に基づく返礼であり、本市が果たすべき外交上の責任」(五頭泰誠市議=つくばクラブ)などの意見が出て、修正案は賛成少数で否決された。 同市の海外視察をめぐってはこれまで、五十嵐立青市長の海外出張に対し、山中真弓市議が「回数が多く、期間が長い」などと指摘し、東京都知事の海外出張に関する運用指針にならってつくば市でも指針を策定するよう求め、市は今年1月、運用指針を策定。指針に基づいて今年2月の市長の海外出張から出張概要や概算費用の事前公開、帰国後の詳細な費用の公開などがなされた。2026年度の当初予算では市長の海外出張の予算は計上されなかった。市国際都市推進課は「(海外に)行く必要がある場合は補正予算に計上することになる」などとしている。(鈴木宏子)

本当の勉強とは何か《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》3

変わりつつある教育と、変わらない現場の違和感 【コラム・2年 竹内琉瑛】読者の皆さんは高校生にどのようなイメージを抱くだろうか。漫画のように勉強・部活・恋愛に全力で向き合う青春の時期、友人とバカなことをして深く考えずに今を楽しむ若さの象徴、義務教育を終え自分の将来を考え始める青年としての節目―。 これらはどれも、高校生活という限られた時間でしか得られない大切な経験だ。そんなかけがえのない毎日を過ごす中で、ふと考えることがある。 部活は楽しく夢中になれる、恋愛は初めてのときめきに満ちている、友達と遊ぶ時間は心を満たしてくれる。では、なぜ勉強だけがこんなにも重く感じられるのだろう。 「本当の勉強」とは何なのだろうか。それは、現在の日本の教育システムの中で本当に実現されているのだろうか。本稿では、日本の教育の目的の変遷を整理した上で、変革期にいる一人の高校生としての実感と疑問を述べたい。 最初に、そもそもの教育の目的について話をしたい。それは時代とともに大きく変化してきた。戦前であれば、日本の教育は国家のために人を育てるものだった。教育勅語には、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあり、国家に尽くす国民の育成が明確に目的とされていた。一方、戦後の教育基本法では次のように定義されている。「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」。ここで重要なのは、教育の目的が「国家への奉仕」から「人格の完成」へと大きく転換した点である。この理念は、義務教育だけでなく高校・大学教育まで含めた、今の日本の教育全体の根本にあり、これからも維持されるべきだと考える。 では実際に、今の日本ではどのような教育を目指しているのだろうか。2017年に告示された新学習指導要領で、教育の目的が「知識の量」から「資質・能力」へと明確にシフトしたことが読み取れる。その背景には、次のような理由がある。まず、予測困難な時代の到来。AIやグローバル化の進展により、将来を正確に予測することは困難になった。そのため今の社会では決められた正解を覚える力ではなく、自ら課題を見つけ、主体的に解決する力が求められている。次に、Society5.0への対応。仮想空間と現実空間が融合する社会Society5.0では、単なる労働力ではなく、多様な個性を生かしイノベーションを生み出す人間が必要になる。そして画一的教育への反省。「みんなと同じ」を過度に求める一斉指導は、不登校やいじめ、生きづらさの一因 になってきた、という反省から、「個別最適な学び」への転換が求められている。これらは実際に文部科学省が正式に明言していることだ(*脚注)。 しかし、変革のただ中にいる高校生として正直に言うと、体感としては何も変わっていない。確かに探究学習は通常授業に組み込まれ、茨城県では、生徒の探究心を応援するため、平日に学校を休んで校外学習をすることができる「ラーケーション」というシステムの導入も始まった。それでも、多くの生徒の意識は従来のままだ。その理由として、日本の大学入試制度が変わっていないということが挙げられるだろう。総合型選抜や推薦入試が拡充されつつあるとはいえ、実際にそれを利用するのは「一般入試でも余裕で合格できる上位層」がほとんどである。何をすれば評価されるのか分からないし、失敗したときのリスクが大きいし、勧めてくれる大人もいない。そうなると、「とりあえず勉強しておく方が確実だ」という判断に落ち着くのは自然だろう。だから推薦を利用する人たちももっと安心して受けられるような入試制度にするべきである。 安心して受けられる推薦入試―。それは、一見もっともそうな主張に思える。しかし本当に日本が求めているのは、こんな入試制度が生み出す人材なのだろうか? 本来、社会を変えてきた技術や発明に、最初から成功の保証などなかった。インターネットも、ロボットも、AIも、すべて未知への挑戦から生まれている。それにもかかわらず、日本の若者は「確実」「安心」を求める方向へと強く誘導されているように感じる。背景には、日本人の特性もあるが、バブル崩壊や就職氷河期を経験した親世代の不安もあるだろう。その不安が、僕たち若者を、この不安定な世界にはどこにも存在しない「安全な正解」へと縛りつけている。そして不確定な選択を避けさせようとする。 この不安定な世界において、本当に日本の教育が向かうべき先は、模範解答を見せて推薦入試に皆が手を出せるようにするようなことではない。そうではなくて、生徒の主体的な取り組みを正しく評価することである。僕はこのことを一人の高校生として強く主張したい。この不確実な日本の環境の中で、一歩勇気を持って前に踏み出した人に対して、最大限応援する姿勢、これが未来を創る人間を育てるためにも、それぞれの個性を尊重する教育を実現するためにも、大事なのではないだろうか。 日本は世界でもトップクラスの技術力と課題解決能力を持つ国だと、私は思っている。自動車、半導体、宇宙産業など、さまざまな分野で日本製の部品や素材が存在感を示している。これは間違いなく、日本の大きな武器である。しかし、それらの多くは、海外企業が設計した製品や市場の中で、「この部品を作ってほしい」と依頼されたものを高品質で供給しているに過ぎない。つまり現在の日本は「他国の課題を解決する巨大な工場」になってしまっている。 日本は「課題を定義する側」ではなく、「課題を解く側」に回っている。他国の課題ばかりを解いていては、自分たちの本当の課題は見えてこない。そしてもし、世界の主戦場が変わり、日本に課題が供給されなくなったとき、日本の産業は行き場を失うことになる。本来、日本ほどの技術力を持つ国であれば、自ら課題を定義し、新しい産業や市場を作る側に回ることができるはずだ。「何を作るか」を他国に決められる国ではなく、「何を作るべきか」を自ら定義する国へ、そこに、日本の次の成長の鍵があるのではないだろうか。 僕は、日本に今本当に必要なのは、自分たちの社会の課題を見つけ、解決し、より良くしていこうとする主体性のある人材だと思う。「本当の勉強」とは、不確実を避けて安定した道を知ることではない。不確実な世界に飛び込み、自分の頭で考え、試行錯誤し続ける力を育てることだ。教育がそのための場所になる日は、まだ来ていない。だからこそ、今の教育に違和感を覚える声が、無視されてはいけないのだと思う。 こうした現状を前に、少なくとも僕は、「確実さ」や「正解」に守られた道を選び続ける生き方はしたくないと思っている。不確実な選択を避け続けることは、一見賢明に見えるが、自分自身の問いを持たないまま社会に適応していくことでもあるからだ。そして僕は、与えられた課題をただこなすのではなく、自分の違和感や疑問を起点に問いを立て、それに向き合い続ける生き方を選びたい。失敗や遠回りを恐れず、自分の頭で考え、試行錯誤を重ねる。その過程こそが「本当の勉強」であり、その積み重ねが、社会をより良く変える力になると信じている。教育の現場がまだその理念に追いついていないのなら、まずは自分自身が、その理念を体現する存在でありたい。 *脚注 Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会、新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース「Society 5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」2018、総合科学技術・イノベーション会議「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」2022を参照した。