月曜日, 10月 13, 2025
ホームつくば「つながり」テーマに現代社会を可視化 若手写真家ら11人が作品展

「つながり」テーマに現代社会を可視化 若手写真家ら11人が作品展

県つくば美術館

「つながり」をテーマに、災いや病、故郷と家族、人間と土地の営みなど、現代社会が生み出す課題と向き合う若手作家ら11人による作品展「ヴィジュアル・コミュニケーション展2024 リレイト:ここではないどこかで」が、8日から県つくば美術館(つくば市吾妻)で始まった。今年で8回目の開催で、写真を中心とした映像作品や立体物など約50点が展示されている。

何気ない風景に対立の歴史

都内在住の写真家、吉野絢人さん(23)は、都内や周辺地域にある「境界未定地」をテーマにした写真作品「リフレーミング」を展示する。展示スペースの中央に並ぶ2点の写真は、水辺に茂る木々を池の両岸から写したものだ。一見、どこにでもある穏やかな景色に見えるが、この池は東京都と埼玉県の境にあり、境界線が決まらない「境界未確定地」なのだという。東京都側の都立水元公園(同都葛飾区)と、埼玉県側の県営みさと公園(同県三郷市)の間に挟まれた「小合溜井(こあいためい)」と呼ばれる池で、江戸時代、8代将軍の徳川吉宗が、農業用の水を貯めおくために造らせた。完成当時から両岸の住民の間で境界を巡り対立が続き、互いの主張が折り合わずに現在に至っている。近年は、葛飾区と三郷市の間で締結された管理協定により水面管理が行われているという。

争いごとを抱えていることなど知らずに、何気なく見てきた風景が、対立の歴史の中にあることへの驚きが、一連の作品の出発点になったと吉野さんは話す。その他、東京都大田区と江東区の間で境界が未確定の「中央防波堤埋立地」、東京都と千葉県の間で協議が続く旧江戸川の河口、現在も住所がない有楽町駅前にある商業施設「銀座インズ」の一帯などを写した作品が並ぶ。

吉野さんは「境界地を撮影し、複雑で曖昧な境界線のあり方を提示した。境界線や差異を乗り越え、両者の関係性を捉え直し、共に生きる方法を模索した」とし、「どの場所も、目に見える形で争いがないということがテーマに取り組むきっかけになった。今後は、日本各地、国と国の境界にも関心を持っていきたい」と話す。

「交換可能な風景」もふるさとに

高田憲嗣さんの作品「メモリーズ 僕たちの平成/令和の原風景」

デザイナーで兵庫県在住の高田憲嗣さん(30)が、埼玉県在住の勝見知周さんと制作したのが、写真と立体物による「メモリーズ 僕たちの平成/令和の原風景」だ。高田さんは、「交換可能な風景」と揶揄(やゆ)される、赤や黄、青など原色が彩るドラッグストアーやファミリーレストランの看板が並ぶ、郊外の国道沿いの風景を「唯一無二の心のふるさと」と感じる人たちがいると話す。自身も郊外出身だという高田さんは「田舎に行くと、どこに行っても同じ風景があると批判的に言われるが、ちょっと待てよと思った。その土地の人にとっては、そこでの出来事こそが故郷の思い出、原風景となり、自分の思い出とも重なる」と作品作りの動機を語る。被写体に選んだのは、チェーン店が増え始めた平成初期に青年期を過ごした30代から40代の人物が中心だ。それぞれが、部活帰りに友人と過ごしたファミリーレストランや、子どもの頃に胸をときめかせて通ったファストフード店での楽しかったり切なかったりする思い出話を、高田さんによる明るいポップなデザインで写真と共に作品に仕上げている。

東京都在住の写真家、横井るつさん(23)は、コンクリート壁や床、草が茂る地面にプロジェクターで投影した人肌や体の一部の写真を、カメラで再撮影した映像作品「フムス」を展示する。ラテン語で「地面」「大地」を意味するタイトルで、横井さん自身が都市での暮らしで感じることができずにいた自然とのつながりを再認識する試みだと話す。「本来、人間も動物も、人生が終わったら土に帰っていくもの。東京で生きてきて、地球で生きているのにこの循環を感じられなかった。人の体を映写し、都会に体を染み込ませることができないかと考えた。土葬のイメージもある」と語る。

ほかに、沖縄の与那国島に数年間通い、土地の死生観を表現した野口哲司さんの「ユノリ」や、自身の病に向き合う根岸雄大さんの「メイト」、認知症の祖母の過去と現在に向き合う都築真歩さんの「来し方行く末」、コロナ禍で突きつけられた日常と非日常の境界に独自の視点で向き合う熊万葉さんの「アウト オブ タッチ」などが展示されている。

分断をつなぎ直したい

主催団体「ビジュアルコミュニケーション研究会」の代表で、市内在住の写真家、田嵜裕季子さんは「現在の社会では、国や地域間での戦争だけでなく、SNS上など様々な場所で対立が起きている。問題を二元論で捉えて分断してしまう考え方をつなぎ直す必要がある。サブタイトルの『ここではないどこか』には、誰もがここではないどこかでつながっているという思いを込めた。一見、つながっていないように見えている人や問題も、根っこではつながっていることを感じてもらいたい」とし、「作品を通じて人と人、作品と鑑賞者などのつながりが生まれる展示になれば」と語った。(柴田大輔)

◆「ヴィジュアル・コミュニケーション展2024 リレイト:ここではないどこかで」は14日(月)まで、つくば市吾妻2-8、県つくば美術館で開催。開館時間は午前9時30分から午後5時(最終日は午後3時まで)。13日(日)午前10時30分からキュレーターの菊田樹子さんを招いてギャラリートークを開催。いずれも入場無料。イベントの詳細は、ビジュアルコミュニケーション研究会の公式サイトへ。

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後期ホーム最終戦は引き分け つくばFCレディース

関東女子サッカーリーグ1部のつくばFCレディースは11日、つくば市山木のセキショウチャレンジスタジアムで後期のホーム最終戦を行い、日体大横浜SMGサテライトと対戦、2ー2で引き分けに終わった。 つくばFCレディース 2ー2 日体大SMG横浜サテライト       前半 0ー0       後半 2ー2〈得点〉62分=日体大・堀井咲穂、65分=つくば・鏡玲菜、90+4分=日体大・堀井咲穂、90+6分=つくば・石黒璃乙 つくばは昨シーズン、なでしこリーグ2部から降格し、今シーズンでの復帰を目指す。9月24日から28日に福島で行われたなでしこリーグ2部の入替戦予選は3勝1敗の2位で終え、入替戦の権利を得ていた。関東リーグ残り2試合はアウェーで18日にFC十文字Mare、11月9日に東京国際大学と対戦する。 つくばはここまで勝点6の4位で、首位の神奈川大学を勝点3差で追う。対する日体大は最下位に低迷する。つくばは、勝って優勝に望みをつなぎたいと、ホーム最終戦に臨んだ。 開始からつくばが主導権を握ると、16分に中村真奈が右サイドからドリブルで駆け上がり、中央へクロスを上げる。しかし中央の諸冨愛莉に合わせることが出来ずチャンスを逃す。 23分に再び中村が右サイドからクロスを上げ、石黒璃乙がシュートを放つがゴールネットを揺らすことは出来なかった。中村は「チャンスはつくれていたが最後のクロスの質が悪く、合わせることが出来なかったので、もっとコミュニケーションをとって正確なクロスを上げたい」と今後の課題を上げた。 32分には高橋萌々香が中央から右足で放ったシュートがポストに弾かれ、こぼれ球を中村がシュートするもゴールを奪うことが出来なかった。前半は5本のシュートを放ったが得点を奪うことはできず0ー0で折り返した。 つくばは後半も開始から相手陣内に攻め込み、積極的に攻めチャンスをつくるも、決定力に欠き得点を奪うことが出来ない。 後半17分、日体大の堀井咲穂からゴールを決められ先制点を許すが、3分後、中央からのフリーキックをつくばの鏡玲菜が右足で蹴り、ボールはゴールネットを揺らし試合を振り出しに戻した。鏡は「行けると思って直接狙って蹴った」と話した。 しかし終盤、徐々に日体大にボールを支配される場面が増え、アディショナルタイムに堀井咲穂に2点目となるゴールを決められ勝ち越しを許す。これで勝負が決まったかと思われたが、つくばは直後に右コーナーキックからのクロスを石黒璃乙が頭で決めて終盤間際のラストチャンスで見事に起死回生の同点ゴールを決め、ホームで意地を見せた。 石黒は「ゴール前に来いと思って、フリーになったところを頭で合わせ完璧に決まった」と改心の笑みを見せた。すると直後にホイッスルが鳴り、2−2のドローで試合終了となった。 つくばの志賀みう監督は「なでしこリーグの入れ替え戦まであと2試合なので、その試合に向けてのプレー、練習、戦術の確認をすることも込めて試合に挑んだ。いくらボールを保持してもゴール前に入り込めたとしても、最後にゴールを決められなかったら勝てないってことをすごく学べる試合だった。後半は攻撃のところで攻めあぐねてしまったので、1つ起点をつくろうと整備した簡単なミスから2失点だった。自陣は安心、安全にボールを回さなければいけなかった。それが出来た中でゴールまでいけなかったので整備したい。(なでしこの)入替戦では自分たちはチャレンジャー精神で戦うしかない。相手はレベルの高いリーグで戦ってきたので簡単ではないが、しっかり大胆に戦っていきたい」と抱負を語った。 フリーキックを決めた鏡は「最後に追いつけて良かった気持ちだか、勝ち切ることが必要なので短い時間で修正していきたい。(入替戦は)やるしかないので100%の力を出せるように頑張る」と力を込めた。最後に同点ゴールを決めた石黒は「入れ替え戦では絶対に自分が点を取って勝ってなでしこリーグに昇格する」と力強く語った。 なでしこリーグ2部の入替戦はホームアンドアウェーで行われ、第1戦(対戦相手は未定)は25日ホームのセキショウチャレンジスタジアムスタジアムで行われる。(高橋浩一)

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