常総市水海道宝町にかつてあった映画館「宝来館」跡地で7日夜、第10回となる野外映画会「懐かシネマ」が開催された(9月4日付)。2014年から続いてきた催しも今回が最終回。主催者の東郷治久さんや羽富都史彰さん、神達岳志常総市長、俳優の山本學さんらのあいさつの後、山田洋次監督・高倉健主演の「幸福の黄色いハンカチ」が上映され、約200人の観客が名画に酔いしれた。
「最後に値する素晴らしい映画だった」と東郷さん。「来場された皆さんから、かえって自分たちの方が元気をいただいた。このパワーを次の世代へ渡さなくては」と羽富さん。
40年越しのサプライズも
最後にサプライズもあった。1983(昭和58)年の宝来館取り壊しの際、同館に寄せる思いのたけをつづり、新聞折り込みチラシで7000枚を配布した人がいた。ずっと名前を秘し続けてきたその人が、今回ついに明らかになった。
その人とは岩見印刷(水海道橋本町)社長の岩見昌光さん(70)。当時30歳で、「映画館という一つの文化が水海道から消える。そのことに市民の皆さんに思いを馳せてほしかった」との意図だったそうだ。これには東郷さんも「宝来館を閉めることは両親も残念に思っていただけに、あのチラシを見たときは本当に喜んでいた」と、万感の思いがこみ上げていた。
「宝来館は私の原点」
発起人の一人の井桁豊さん(89歳)は「私は水海道生まれ宝来館育ち。絵と映画が好きだから映画看板絵師を続けてこられた。いろいろあったが苦労とは思わなかった」と、宝来館での日々を振り返った。
井桁さんは1939(昭和9)年生まれ。中学卒業と同時に宝来館に勤め、映画看板の修業を始めた。「中学校の先生が『絵がすごくうまい子がいる』と推薦してくれた。宝来館でも描き手を探していたところで、当時好きだったスタルヒン(巨人軍などで活躍したプロ野球投手)の絵を見せて一発合格だった」
当時の上映は3本立てで週替わり、短いときは3日で替わることもあり、絵を入れている余裕がなく、文字ばかりの看板のときも多かった。看板以外の仕事では、近くの町の倉庫などにフィルムと映写機を運び込み、出張上映会を開くこともあったという。
20歳のとき修業のため上京。赤羽東映やオリンピアなどの映画館で住み込みで働く一方、当時映画街として栄えた浅草六区や日比谷の看板を見て回り、腕を磨いた。「四谷にあった映画看板専門の会社でアルバイトもした。背景はほかの人に任せて人物だけを描いた。顔を描ける人は少なかったので、忙しいときは徹夜続きだった」
映画会社からはチラシなどの宣伝材料は来るが、それを基にどう描くかは絵師のセンスの見せどころ。フィルムが白黒であっても看板では頭の中で色を補ってカラーで描く。井桁さんはほかの人が5色で描くところを10色以上も使い、遠くからでも目を引くよう立体的に、躍動感あるタッチで描いた。
東京では15年ほど映画看板を描き続けたが、テレビの普及などもあって仕事が減少。谷田部町(現つくば市)に家を建て、商業看板のほか賞状など筆耕の仕事をなりわいとしながら、シネフォーラムつちうらなどの映画看板も描き続けた。
2014年に「懐かシネマ」の活動を東郷治久さん、羽富都史彰さんと共に始めたのは「宝来館は自分の出発点。その原点の姿を残したい」との思いもあった。土浦やつくばでの個展では、自身の描いた映画のポスター絵や、スター俳優のポートレートなども展示。次回開催は来年4月、つくば山水亭(つくば市小野崎)で予定しているそうだ。(池田充雄)