【コラム・山口絹記】最近は家に本が届くことが多くなった。積み上げると私の肩のあたりまで届く有様(ありさま)で、正確な数は数えていないが、まったく困ったものである。
自然現象のように書いてみたが、なんてことはない。自分で買ったのだ。買ったとも。紙の書物は当分購入を控えると(ひとり勝手に何かに)誓っていたのだが、無理だったらしい。性懲りもなく定期的に禁煙宣言している方々とおおむね同類であり、ああ、またなんか言っているな、と思っていただいて差し支えない。
過去のコラムでも何度か書いたが、私は重度の活字依存症である。活字なら何でもよいと思っているフシがあり、一般的な書物はもちろんのこと、内容が理解できない技術書でも、やったこともないゲームの攻略本でも気が付くと読んでいる。依存対象がアルコールであったなら、メチルアルコールでも手を出す手合いだろう。見境だとか節操というものがどこにも見当たらない。
今日も2冊届いた
こういった私のような、いわゆる『患者』と呼ばれる人間には共通点がある。基本的に対象が自然発生したような物言いをするのだ。例えば、カメラの界隈(かいわい)における患者たちは、レンズが『生えてくる』と強く主張する。生えてくるものは仕方がなかろう、ということらしい。たけのこか何かなのだろうか。
書籍やゲームソフトの界隈では、『積む』という用語がもっぱら多用されるのが特徴だ。コレは一見主体としての人間が対象を『積んでいる』わけで、意識してやっているように思われるが、重要なのはかたくなに発生過程について言及していないことだろう。
つまり、我々はどこからともなく現れた書物という物質を積み上げているだけなのであって、たくさんあるものは積むしかないんだ、仕方ないではないか、と言っているのだ。そういう意味では、購入したことをハッキリと明記(というか自白)した私はかなり潔いと言えるだろう。
ついでに、この場を借りてひとつ言い訳をさせていただくと、今年の夏はバタバタと忙しく寝不足が続いていた。正直に申し上げて、これらの書籍を購入した記憶は判然とせず、この行為は責任能力が著しく低下していたことによるものと誰かに証明していただきたいのだが、本日も2冊書籍が届いた。どうやら余罪もありそうなのである。(言語研究者)