日曜日, 3月 29, 2026
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生徒が入試の出題者に 「よい問」巡り教員と熱論 茗渓学園

新コースのアカデミアクラスが設立されて4年目を迎える茗渓学園中学校高等学校(つくば市稲荷前、宮崎淳校長)のアカデミアクラスの生徒が、グループに分かれて入試を想定した問題を作り、内容の良し悪しを教員と議論し合う公開シンポジウムが17日と18日、つくば市竹園、つくば国際会議場で開かれた。

同クラスはアカデミックな研究活動と受験指導を両立させて、次世代を生き抜く力を育成し、国内外の難関大学進学を実現させることを目的に2021年に設立された選抜コース。

公開シンポジウムは今年で4回目。昨年までは教員が作る問題に、生徒が意見を投げ掛けるものだったが、今年は初めて生徒と教員がそれぞれ作題者として同じ立場で意見を交わし合う場を作った。同校の教育構想推進部の谷田部篤雄部長(36)は「生徒が出題者の目線に近づくことで、難しい問題でも作題者の意図を考え、解く力を付けさせることが一番の目的。能動的で自発的な学習を目指すアカデミアクラスの目的にもつながる」と話す。

3カ月前から始まった生徒による「よいとい」作りでは、中学1年から高校3年まで、約300人いるアカデミアクラスの生徒が「感動するくらい、『よい問』」をテーマに各クラスでグループごとに入試を想定した問題を作った。さらに内容を吟味しながら最終的に中1から高3の生徒が混合する8つのグループをつくり、数学、理科、英語、国語の4科目で10個の問題を提案した。

シンポジウム初日の17日は生徒が作った問題をグループごとに紹介し、18日午前は、グループごとに作った問題に対して、同校の教員や、大学教員らによるゲスト審査員からの指摘に、生徒が回答しながら「よい問」とは何かについて考えを深めた。

18日午後からは、教員が作った問題に対して生徒が疑問点を指摘した。英語や国語の長文の問題に対しては「長文の問題なのに、全体を読んで答える問題が少ないと感じた。全体を把握しなければ答えられない問いにするべきでは?」「注釈の付け方が作題者ごとに異なる」「注釈の付け方をもう少し工夫はできないのか」など生徒から率直な疑問が出て、熱を込めて思いを伝える教員の姿に、会場からも熱い視線が注がれた。

シンポジウムに参加した生徒と関係者らによる記念写真

総評に立った国文学研究資料館研究部の栗原悠准教授は「(長文問題では)読んだ経験が残ることが重要。出題者の意図をつかむことと共に、学ぶことの楽しさを知ってほしい」と語った。

発表資料を作成するなど運営にあたった組織委員のメンバーで、ファシリテーター(司会)を務めた同高校1年の矢島千歳さん(16)は「努力家が多く、皆が頑張り刺激し合う中で、生徒同士だけでなく、教員と生徒の間でも本当に色々なことを伝え合えるイベントだと思っている。ファシリテーターとしてそれぞれの考えをよく見て、その人が本当に考えていることをひろえるよう意識した」と話した。

茗渓学園の谷田部部長は「生徒の良い発表もあった。教員と生徒の間で問題の弱点も指摘し合い議論できたのは良かった」とし、「作った問題の検討を教員同士ではよくやる。色々な指摘もあり緊張感がある。今回の取り組みでは生徒も教員と同じ目線に立てるということがわかった。今後、我々も、教員に出すような気持ちでより緊張感を持って作っていきたい」と話すと、「教育現場では教員が万全の準備をした上で、失敗がないように物事を始めることが多いが、子どもたち自身が大きな可能性に気づかせてくれた。彼らの成長に私たち教員も引っ張られて成長することができる」とし、「今後はより多くの参加を期待し、来年以降につなげたい」と語った。(柴田大輔)

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塗装完了、ライトアップ再開 つくばエキスポセンター H2ロケット

40周年、エメラルドグリーンに つくば駅近くの科学館、つくばエキスポセンター(同市吾妻)のシンボルであるH2ロケット実物大模型の全面塗装工事が25日完了し、約4カ月間の工事を経て、一新された姿が披露された。同日夜にはライトアップも再開され、エメラルドグリーンの光が高さ約50メートルのロケットを照らし出した(25年12月11日付)。 今回の全面塗装は2014年以来、11年ぶり。昨年11月25日から足場の組み立て作業が始まった。1990年に同所にH2ロケット模型が設置されて以来、おおむね10年ごとに、基部から先端部分まで全面的に塗り替えが行われてきた。 ライトアップは工事完了に伴い、25日夜から再開された。今年エキスポセンターは、1986年4月の開館から40周年を迎えることから、ライトの色を、ロゴや看板、横断幕などに使用される40周年記念イメージカラーのエメラルドグリーンとした。これまでも、乳がん啓発月間にはピンク、世界糖尿病デーには青など、イベントに合わせてテーマカラーに変えながら常時、ライトアップを行ってきた。 館内では40周年を記念して、来場者用の記念スタンプや、館内限定で利用できる特設オンラインフォトフレームなどが用意されている。 今回の塗り替えについて、エキスポセンターの中原徹館長は「つくばエキスポセンターのH2ロケットの再塗装が無事終了した。つくばのランドマークであるロケットをきれいな姿で皆様に披露できることをうれしく思っている。是非、新品のようになったロケットを見にきていただけたら」と語った。 エキスポセンターは、1985年に開かれた「科学万博つくば’ 85」の第2会場として建てられ、万博閉幕翌年の1986年に科学館として再オープンした。当時、世界最大だったプラネタリウムをはじめ、万博関連資料が展示されているほか、最先端の科学技術をわかりやすく紹介している。 今回、お色直しされるH2ロケットの模型は、初の純国産大型ロケットとして1994年に1号機が打ち上げられた「H2」を模したもので、1989年の横浜博覧会で展示された模型を1990年6月にエキスポセンター屋外展示場に移設した。(柴田大輔)

J:COM茨城が「JCOMマーケティング茨城支社」に 4月から

茨城県南を中心に事業展開するJ:COM茨城(登記名は土浦ケーブルテレビ、本社土浦市真鍋)の名称が4月から「JCOMマーケティング茨城支社」に変わる。親会社JCOM(本社東京千代田区)のグループ組織再編に伴うもので、J:COM茨城は存続会社ジェイコム東京(4月からJCOMマーケティング)の地方部門になる。サービス内容は変わらないという。 土浦ケーブルテレビは1983年、土浦市や地元有力者の出資で設立された。元々は有線によるテレビ番組を提供する会社だったが、現在では、通信ケーブルや光ファイバーケーブルを使い、多チャンネルテレビ、インターネット接続、固定電話サービスのほか、ネット防犯カメラ、太陽光発電パネル設置なども扱う会社になった。 事業拡大の過程で、住友商事が出資するJCOMの傘下に入ったが、登記上の社名は「土浦ケーブルテレビ」を維持してきた。ところが親会社のJCOM(現在はKDDIも折半出資)が大規模な組織再編を実施。全国展開するケーブルテレビ子会社9社のうち、ジェイコム東京が存続会社になり、J:COM茨城など残り8社を吸収合併することになった。 県央にも進出へ J:COM茨城の海老澤孝一社長(4月から支社長)は再編の利点について ①契約者が東京などに引っ越した場合、そのエリアに支社(3月までは系列会社)があれば契約が社内の手続きで済むので、契約者には便利になる ②現在のサービス地域を広げる場合、同じ社内の人事で要員確保が可能になるので、スムーズに事業展開ができる―などを挙げた。 J:COM茨城の現サービ地域は、かすみがうら、つくばみらい、つくば市の一部(茎崎地域など)、阿見町、美浦村、牛久、取手、守谷、常総、石岡、土浦市、利根町、龍ケ崎市。2月末の加入世帯は、ケーブルテレビ5万3000件、インターネット5万900件、固定電話4万5400件、モバイル8638件。 同社は「茨城はケーブル事業者が少なく、県庁所在地に事業者がない唯一の県。すでに事業者が存在する日立、県西、つくばの各エリアには出ないが、今後、県央、県北、鹿行には、他社ケーブルを借りる形で出て行く」(海老澤氏)と話す。特に水戸エリアを重視している。(坂本栄)

友達を定義できるか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》5

【コラム・1年 月山望】 「今日友達がさぁ」 こんなふうに話すとき、「友達」という言葉はどのような人を指すだろうか。本当に親しい人、よく話をする人、果てはただのクラスメートまで。このように、友達という単語にはあまりにも多くの意味がある。 私は昔から、親や先生がクラスメートを友達と同じ意味で使うことに反感を抱いていた。よく話をする人と話さない人、気が合う人と合わない人、クラスメートの中にもいろいろいる。これらの人々をすべて友達とするのは、私には無理がある。 「クラスメートなどというものは、しょせん同じ空間にいるだけの他人であり、友達というに値しない」。そんなふうに考えたこともある。しかし、世の中にはクラスメートは全員友達である、という価値観の人もいる。(おそらくクラスLINEを作るのはこのようなタイプの人間だと、私は思う)。この違いは一体なんだろう。友達とは、いったいどこからいえるのだろうか。 私には、たまにしか会わないが、信じられないほど馬が合う友達がいる。それは一体どういうことなのかを考えてみると、その友達は、会わない時間など気にならないくらいに、気軽に話せる気の合う人だ。だとすると、私にとって友達と言える人の条件は「会わない時間が気にならないくらい、性格の相性が良い人」ということなのだろう。 しかし「クラスメートはみんな友達」という理論の持ち主は、おそらく私と全く異なる価値観で友達を考えているのだと思う。そのような人は、何をもって他者を友達と考えるのだろうか。おそらく「一緒の空間にいる(いた)こと」ではないかと私は考えている。例えば一緒のクラス、一緒の部活などが考えられる。「クラスメートはみんな友達」という理論の持ち主は、同じ空間を共有している(いた)人に、気軽に声を掛けることができるタイプの人たちなのではないか。であれば、クラスメート全員を友達と認識していてもおかしくない。 そこで問題になるのは、感情が一方通行であることだ。相手の意思とは関係なく、自分が友達だと思えればいいという考えだといえる。それは、私が考える友達とは異なるものだ。一方で、私にとっての友達の条件が、クラスの全員に当てはまることもないだろう。私が考える友達の条件も、私だけのものなのかもしれない。 ここで改めて今回のテーマである、友達を定義できるか考えてみよう。ここまで見てきたように、私と他の人の考える友達の条件は、全く異なるものであり、私と私の友達の間ですら、もしかすると異なった認識でいるかもしれない。友達に対する価値観は、それぞれ異なるものであり、あやふやなものだと言える。どこからが友達と言えるのか。そんなものは自分の主観でしか決められないのだ。しかし、だからこそ、私たちは他者と友達になることができるのではないだろうか。定められた友達という型に、他人を、自分を無理やり押し込めるのは、あまりに難しい。なんとなく話しかけてみる、距離を縮めてみる。それは、定義された友達を目指すことよりずっと簡単なことだ。 定める必要などなく、ふと気がついたらそうなっている。友達とはそんなものなのかもしれない。そうなると、友達を定義できるか?に対する私の答えは「定義できない」だ。