土曜日, 4月 5, 2025
ホーム土浦土浦中都地区物語 開拓の記憶【戦争移住者の営み今に】4

土浦中都地区物語 開拓の記憶【戦争移住者の営み今に】4

満州から引き揚げてきた尾曽章男さん(89)や、故・下田博さんが1948年に入植したのは、当時「中貫開拓」と呼ばれた現在の中都3丁目だ。現在の長野県飯田市出身者が主だった。土浦市の中川ヒューム管工業の創業者・中川延四郎が私有地3町分を県指定の開拓地として開放、3軒の家屋を建設し、入植する6家族に提供した。尾曽さんや下田さんの共同生活による入植がここから始まった。

寒さ身にしみる痩せた土地

下田さんたちは「茨城に未開の土地がある」という話を聞き、水戸市内原にあった「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練に使われていた施設に身を寄せて、県内に入植地を探した。長野出身の他の親戚や友人らは、鉾田の旧陸軍飛行場跡地や現在の牛久市、かすみがうら市へと入植していく中で、「中川ヒューム管の社長が小屋を建てて引き揚げ者の支援をしている」という話を耳にした。

「湖北開拓」と呼ばれた現在の中都1丁目に入植した皆川庸さん(93)と梅田香さん(75)も共に長野県飯田市出身だ。ここには茨城など他県出身者も入植していた。皆川さんは中都に暮らす同郷の親戚を訪ねたのが縁になり、兄弟で開拓していた旧御前山村(現城里町)出身で元予科練生の皆川和(やまと)さんと出会い、中都に嫁いできた。

皆川庸さんと夫の故・和さん

皆川さんが「野っ原っていう感じ」だったという開拓地は見上げる筑波山から吹き荒ぶ「筑波おろし」の寒さが身に染みる、土地の痩せた場所だった。「風が吹くと埃(ほこり)がうちの中に入ってきてご飯食べるのも大変。徐々に風除けに木を植えて、だいぶ大きくなって楽になりました」。

梅田さんは1946年、満州から引き揚げた両親の3男として長野県で生まれた。父親が先に中都へ入植し、生まれて間も無い梅田さんは母親と中都へ移住した。「一番最初は男の人ばっかのふんどし1枚の生活。よしずを三角にして寝泊まりしてたって聞きました。共同で作った五右衛門風呂に交代で入って。お金なんかないし食料もない。食い物作んなきゃなんないから松林をひっくり返して最初にできたのがサツマイモ。暗くなると寝て、明るくなると起きる暮らしだった」。

驚くほどよく売れた

開拓者たちは一から始めた暮らしを少しでもよくするために工夫を凝らした。

6反歩の松林を切り倒すことから始まった尾曽さんらの「中貫開拓」には、近隣に暮らす地元のタバコ農家が協力した。「農家はタバコ葉を乾燥させるのに木の根を燃料にしてたから、欲しいって言う農家にあげたら手伝ってくれた」と話す。食べるために作ったサツマイモは、焼き芋用に東京に出荷する業者が買い付けに来た。要求されればいつでも出荷できるようにと掘った竪穴に保管していると、驚くほどよく売れた。

農作物ができない冬場は、開拓仲間が朝4時に起きて神立駅まで7キロを歩いて6時の汽車に乗り、4時間かけて福島県小名浜港に向かった。一斗缶いっぱい買ったサンマがよく売れて、リュックに詰めて2日間売り歩くと800円ほどになったという。

「平和開拓」の名をとった中都地区を走る「平和通り」

未分別のごみが大量に

痩せた土地をどうにかしようと入植直後に始めたのが生ごみを堆肥にすることだった。市に話を持ちかけると、市内のごみをトラックに積んで開拓地まで運んでくれた。1日2台。未分別のごみが大量に集まった。手作業で分別し、金属は金に変え、生ごみは時間をかけて腐らし畑に混ぜ込んだ。堆肥と共に運ばれてきたビー玉やおはじき、貝殻なども畑に混ぜ込まれた。当時の子ども達にとってビー玉やおはじきを畑から掘り出すのは、宝探しのような楽しみだった。

下田博さんの妹で、中都で育った飯島節子さん(82)は「みんな昼間は働いた。小学生でも草とって。働け働けって言われてね。でも楽しかったよね。夜は月明かりで隠れん坊したり、缶蹴り、縄跳びとかしてね」と明るく思い出す。

弁当の見た目ごまかした

食べ物も工夫した。飯島さんは「お店に買いに行くのは滅多になかった。自分たちで作ったサツマイモと陸稲は、普通のより美味しくないけど工夫し食べた。飼ってたニワトリやウサギは骨まで全部潰して食べた。お乳はヤギ。ほとんど毎日同じものを食べてたけど、お砂糖に醤油、お塩を使って味を変えてたね。ごま油も作ってね。菜種もいっぱい植えて菜種油を作った」

近くの都和小学校に転入した尾曽さんが思い出すのが学校で食べた弁当だ。「学校に弁当持っていくのが嫌だったの。なんでかっていうとご飯にイモが入ってたから。弁当を食べるときにイモをどかして下にして、上は薄いけど白い米だけにした。見たところ普通の弁当に見えるように。ずっとそうやってごまかした」

尾曽さんよりひと回り以上若い梅田さんも弁当の時間を思い出す。「周りの子どもはみんな白い米の弁当を持ってくる。地元の農家は田んぼを持ってたから白米があった。銀シャリだ、なんて言ってね。我々のは真ん中に筋の入った麦飯だから黒く見える。恥ずかしいから新聞紙で囲って食べました」

開拓者たちが建てた農村集落センター

長野の文化で育った

開拓地の子ども達は、親や祖父母の故郷、長野の文化で育った。「小学校行くまで長野の人の中で育った。全く地域を出たことがなかった」と梅田さん。話す言葉も長野の言葉ばかり。「小学校に行ったら、言葉が全くわかんなくってね」と慣れない茨城弁に苦労したと振り返る。

長野の文化は食べ物にも現れた。お祝いどきに食べたのは、中部地方の山間部発祥とされる五平餅。開拓者たちの故郷の味だ。他にもよく食べたのがタンパク源として長野の山間地で食された蜂の子にイナゴの佃煮だ。下田さんの娘の相崎伸子さん(70)は「昼間に見つけた蜂に綿をつけて追いかけた。見つけた巣に夜行って、いぶして素早く掘りとる。蜂の子はみりんや砂糖で料理して、いい食料、栄養源だったよね」と懐かしむ。

「開拓」は新しいことやる

石油ランプだった暮らしに初めて電気が通ったのが1954年ごろ。「ちっちゃな手じゃないと入んないからって、子どもの時分にはランプの掃除をやらされた。手がすすで真っ黒になってね。そこに裸電球1個がきた。いやぁ、明るいねって感激しました」と梅田さん。

地域では、努力の甲斐があり、土が肥え、換金作物の幅が増えた。麦から始まり、落花生、白菜、スイカ、梨へと広がり、開拓者たちの共同出荷が始まった。酪農を始める家も増えた。「一生懸命働きました。だからテレビも早くに買えた。金曜日の夜は力道山の試合があるから6畳1間の家にみんな来る。帰らないと寝れなかった」と尾曽さんが言う。それ以前は街頭テレビを見るため亀城公園まで歩いて行っていたと振り返る尾曽さんがこう続ける。

「昔は『開拓』ってみんなに馬鹿にされてたの。どんな暮らししてるか見物に来たって人もいたよ。生ごみ使ったのなんて俺らだけだよ。他ではそんなことしねぇよ。ハエがたかって、みんなの背中にくっついていってね。でも、人のやらねぇことやっから『開拓』はそのうちに認められたんだ。『開拓』は新しいことやるってな」

写真の人数がどんどん増えて

7月、梅田さんがビニールハウスでキュウリの収穫に勤しんでいた。多い時で900坪のハウスで栽培していたキュウリは梅田さんが32歳で始めたもの。以前は会社勤めをしながらの兼業だったが、意を決して専業になり40年が過ぎた。その間、3人の子どもを育て、それぞれが独立して4人の孫に恵まれた。

自身のキュウリハウスに立つ梅田香さん

「開拓から出た子達ってのは、なかなか諦めない。何クソって、とことんやる粘り強さは開拓精神としてあると思う。自分が育ってきた地域が良くなるように育ててくれたらいい。現実には跡目がいなくってね。後継者がね」

梅田さんの近所に暮らす皆川庸さんの家には、お盆や正月になると各地に暮らす子どもが孫やひ孫を連れて一堂に会す。夫の故・和(やまと)さんが「家族が増えても集まれるように」と作った家の広い和室も、いつの間にか手狭になってきた。孫の歩さん(44)が言う。「毎年家族が集まると撮る記念写真に写る人数がどんどん増えて、今では20人以上。和室に収まりきらないくらいになった。普段、自分が開拓者の家の子どもだという意識はあまりないけど、家族の写真を見ると、私たちの物語がおじいちゃん1人の開拓から始まった物語なんだなと感じる。これからも家族の歴史を繋いでいきたい」。(柴田大輔)

皆川家の皆さんと梅田さん(左から3番目)

終わり

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

0 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

「人格の完成を目指せ」 日本国際学園大つくばキャンパスで入学式

2期生87人が入学 昨年4月に開学した日本国際学園大学(橋本綱夫学長)の入学式が4日、同大つくばキャンパス(つくば市吾妻)で催され、第2期生87人が入学した。旧筑波学院大学から大学名を変更し2回目の入学式となった。 総代として、白い民族衣装をまとったスリランカ出身のサンタナ・デワゲ・ハルシ・ナワォデヤ・デウミニ・シルバさんが橋本学長から入学許可書を受け取った。新入生87人のうち44人は留学生で、中国、スリランカ、ベトナム出身者などが多いという。 橋本学長は式辞で「本学を支えている考え方は、大学で幅広い教養や知識を習得するだけではなく、問題解決能力や創造力といった、人格の形成を目指している。実社会に出たら必要なものはコミュニケーション力であり、本当に役に立つ人間を目指してほしい」とメッセージを送った。 新入生を代表して茂木翔太さんは「恵まれた環境で学ぶことができることはとてもうれしい。それぞれの目標に向かって勉強するのはもちろんのこと、物事を多くの視点から見られるよう、学び、社会に貢献していきたい」と述べた。 在校生を代表して経営情報学部ビジネスデザイン学科の寺門光穂さんは「この大学の特徴は、先生と距離が近く何でも親身になって相談できるところ。学生生活を送るにあたって、時間をかけて待つだけではいけない。自ら進んで行動することが大事」だと新入生に向けてエールを送った。 当日は3日間続いた雨も止み、桜が咲く中での入学式となった。中国出身の新入生で留学生の森拓也さん(18)は「まずは日本語の会話がちゃんと出来るようにしたい。これからは情報が大事だと思うので、AIなど学べれば良い」などと話した。 同大は1990年、東京家政学院大の筑波短期大学として開学。96年に4年制の筑波女子大学になり、2005年に男女共学の筑波学院大学になった。大学の運営は19年度に東京家政学院から学校法人の筑波学院大学に移り、23年からは学校法人名を日本国際学園に変更した。昨年からは姉妹法人の東北外語学園(仙台市、橋本理事長)が運営する仙台市の東北外語観光専門学校に新たに日本国際学園大学の仙台キャンパスを設置した。(榎田智司)

家族行事のおはなし《ことばのおはなし》80

【コラム・山口絹記】久しぶりに家族でいちご狩りに行った。我が家ではこの10年、いちご狩りはほぼ毎年の家族行事のようなものになっているのだが、昨年は私がバタバタして行けなかったのだ(知らないうちに私抜きで行った可能性はある)。 つくばに暮らすようになって最初の数年は、いちご狩りができるところをいろいろと巡っていたのだが、ある時からふとしたご縁で同じ農場に通うようになった。毎年同じところを家族で訪れる、同じことをする、というのは、案外悪くないものである。 この10年ほどを思い返してみると、張り切って遠方に旅行したりするよりも、ただなんとなく毎年やっていることの方が記憶に根付いていたりすることに気が付いた。別に記憶に留めておきたくてやっているわけではないのだが、結果的にそうなった、という感じなのだ。 娘のおひな様を出したり片付けたりするのを忘れる程度の人間なので、あまり偉そうなことは言えないのだが、本来の家族行事もそういった意味もあるのかもしれない。 ただなんとなくいちご狩りに いちごでおなかがいっぱいになってしまったので、妻と一緒にベンチに腰掛けた。また寒い日が続いているが、温室の中は暖かくて居心地がよい。油断すると満腹なのも手伝って気を失いそうになる。 息子はいちご狩りに飽きたのか、ヘタを入れる紙コップと食べかけのいちごを私に手渡すと、有り余る体力を消耗するためだけに駆けだす。それを追って娘も、いちごの間を駆けていく。息子の食べかけのいちごを食べながら、駆け回るこどもたちをぼんやり眺めていた。来年もまた、ただなんとなくいちご狩りに来られたらいいと思う。(言語研究者)

児童、生徒の増加に対応 新 桜給食センターが開所 つくば

10日から6600食を提供 つくば市天王台に桜学校給食センターが開所し、3日、同センターで開所式が開かれた。つくば市では近年の児童・生徒数の増加と、既存施設の老朽化に対応するため新しい学校給食センターの設置が急がれていた。 2020年3月に閉鎖された旧・桜学校給食センターの跡地に新設された。建物は、鉄骨造2階建、建築面積3350平方メートル、延べ床面積3948平方メートル、総工費は約37億円、従業員は約70人。4月10日から市内の幼稚園4園、小学校9校、中学校3校へ約6600食の給食提供が始まる。同センターではアレルギーに対応した給食を含む、1日あたり最大で7000食の調理が可能だ。 環境に配慮した持続可能な給食センターを目指すとし、施設内での排熱利用や発電システムを設置した。都市ガスを使って発電するガスコージェネレーションシステムでは、発電した電気を施設内の照明等に使用し、発電時に発生した熱はお湯などの熱源に利用する。排熱の回収量は年間約3万600キロワットアワー、発電量は年間6万7200キロワットアワーとなる計画で、停電時の電力としても利用される。屋上には太陽熱給油システム用の発電パネル36枚を設置し、食器洗浄用に使われるお湯に必要な熱量の90%をつくり出す。学校から戻ってきた残飯は粉砕し水切りし、3分の1から5分の1程度に減量して、調理過程で出る野菜くずとともに生ごみ処理機で分解される。建物2階には、1階の作業を見学できる見学室や展示スペースが用意され、食育にも力を注ぐという。 式典のあいさつで五十嵐立青市長は「次の世代に胸を張れる施設をつくろうと取り組んできた。この場所からつくばの新しい給食の形が始まると思っている」と話し、森田充教育長は「給食の時間は友情を深める大切な時間。給食は生きた教材、学びができる時間でもある。工夫をしたセンターを知ることも大事ですし、地元から調達される食材もあるので、食材についても学んでほしい。生産者との交流も学校を通じてしてほしい。食を通じて子供たちの豊かな感性、しっかりした心身が育っていけたら」と述べた。 4月から桜学校給食センターの運営を受託した東洋食品(東京都台東区)の荻久保瑞穂専務は「市内の人口増加、学校新設に伴い新設されたセンターへの市民の皆さんの期待の大きさを感じている。これまで58年間、食中毒ゼロでやってきた私たちの経験をもとに、子どもたちに毎日の給食を楽しみにしてもらえるよう、地元の食材を使用したものなどいろいろな献立に対応していきたい。気持ちを込めて調理した給食をしっかり食べてもらい、心も体も健やかに成長してもらえたら」と語った。 つくば市では、筑波学校給食センター(つくば市神郡)が開所から20年、茎崎学校給食センター(同市小茎)が40年以上経過し施設が老朽化するなどしている。市内では2014年につくばすこやか給食センター豊里(同市高野)、20年にはつくばほがらか給食センター谷田部(同市藤本)が、それぞれ開所した。茎崎学校給食センターは今年3月で閉鎖し、4月からは新しく開所した桜学校給食センターを含む4施設で学校給食を提供する。つくば市の給食提供の総数は1日あたり約2万6000食。4つの給食センターで最大約3万食を提供できる。(柴田大輔)

さよなら牛乳瓶《くずかごの唄》148

【コラム・奥井登美子】配達の牛乳屋さんから、「牛乳瓶が無くなって、ポリ瓶になります」という通知。森永乳業系は昨年から、明治乳業系は4月から瓶が消える。牛乳瓶を手でなでながら、なぜか涙が出てしまった。 東京の新富町で生まれて育った私の父は、近所にあった芥川龍之介の実家の牛乳屋へ、毎日、瓶の牛乳を買いに行ったという。近藤信行さんが山梨文学館の館長のとき、芥川龍之介展に誘われて行ってみたら、龍之介の小学生時代の手書きポスターに「牛乳を飲みましょう」というのがあって、皆で大笑いした。 102年前の関東大震災で家が焼け、我が家は新富町から郊外の荻窪に引っ越した。当時の荻窪は、震災で焼け出された人達にとって、とてもよい住宅地だった。 子供好きの父は、慶應の学生時代から近所の子供たちを集め、絵本を読んだり、水泳をしたりしていたらしい。母は震災の中、芝公園で兄を出産し、震災ノイローゼ。母の実家も焼け、6人の弟(斎藤茂吉の家に書生として入りアララギ派に貢献した小暮政次も弟の1人)たちを残して母親が亡くなり、精神的にも不安定で、なかなか子供が出来なかったらしい。 10年目に私が生まれてホッとしたらしく、次に妹、次に弟(加藤尚武元京都大学教授=環境倫理学)と、立て続けに出産している。私は1歳のとき、ジフテリアにかかって緊急入院。命は何とか取り留めたものの、ジフテリアの後遺症で喉が弱く、痛くて何も食べられないとき、父が作った牛乳ごはん(堅く炊いたご飯に牛乳を入れたおかゆ)が唯一の食べ物だった。 牛乳ごはんが私の常食 荻窪の家の隣にはノラクロ漫画の田河水泡氏のアトリエがあったが、父は、同じ荻窪区域内で、私を助けてくれた小児科勤務医の飯島先生の隣に引っ越してしまった。 夜中、私が40度近くの熱を出すと、父は私を抱いてタクシーを呼ぶ。飯島先生も乗って新宿の淀橋病院に行く。2~3日入院して、熱が下がったら帰る。その繰り返しだった。家に帰って来てからも喉が痛く、牛乳ごはんが私の常食だった。 土浦に嫁いで来て、私を救ってくれた飯島先生が牛久の飯島家出身ということを知り、びっくりした。龍之介の実家以来、牛乳瓶は私の食のシンボルだったのである。(随筆家、薬剤師)