土浦市北部の中都地区は戦後、旧満州からの引き揚げ者や復員軍人らが1947年から48年にかけて入植し、平地に広がる松林を開拓した地域だ。筑波おろしが吹く、農業に適さないとされた土地に茂る松林を切り開き、野菜や果樹を栽培し、酪農を起こし地域に根付いていった。入植者の主な出身地は、全国で最も多くの開拓民を旧満州に送り出した長野県だった。
満州から茨城へ
8月、中都3丁目の自宅前にある下田梨園で梨の収穫が始まった。戦後、中都地区に入植し農園を開いた故・下田博さんが植えた「新高(にいたか)」という品種が今もたわわに果実を実らせる。中都地区では1950年代前半ごろから入植者の間に梨栽培が広がった。
当時、小学生だった下田さんは1940年前後に家族と満州に渡った。数年後、学業を修めるために家族より先に戻った郷里の長野県で終戦を迎えた。満州に残った両親、姉妹、弟の5人のうち、弟が病で、父親が終戦時の混乱の中で事件に巻き込まれ、帰国を前に命を落とした。母親と姉妹が無事帰国した。戦後「茨城には未開の土地がある」という話を耳にして、家族や同郷人と共に土浦に入植した。
中都地区にある、開拓者が建てた農村集落センターの石碑には、入植した57人の開拓者の名が刻まれている。長野県出身の38人を筆頭に、茨城、新潟、宮城、山形、岩手と出身地別に名前が続く。
開拓者は同郷者ごとに集まり土地を分け合い、「不二」「平和」「都和第二」「湖北」「中貫」「笠師」という名を開拓地につけた。のちに「都和開拓農業組合」として一つにまとまり、隣接する旧新治村の開拓地が加わり「都和地区開拓農業協同組合」が発足した。現在の「中都」という地名は、開拓地が「都和」と「中貫」の間にあることから名付けられた。
タバコ畑に父の遺体を埋めた
下田博さんの妹・飯島節子さん(82)は、1942年に満州・吉林省で生まれた。現在の長野県飯田市出身で、両親が38年に息子2人、娘1人と、水曲柳開拓団として渡満した。兄の博さんは生前に記した「自分史」で、初めて足を踏み入れた満州の様子を「雪一面の冬景色(中略)、零下20〜30℃、なにものも凍らせてしまう寒さ」と記し、防寒具が不足し苦労した様子を述べている。一方で「オンドル」という朝鮮半島や中国東北部でみられる、かまどから出る燃焼ガスを利用した床暖房システムの暖かさ、銃を手にした父と出掛けた狩りのこと、満州人(中国人)が売るトウフなどの地元食について子どもらしい新鮮な驚きを書いている。
終戦の時、節子さんは3歳だった。敗戦後、あるトラブルから、暮らしていた村内で日本人が満州人を殺害する事件が起きた。村の中では満州人が「誰か日本人が責任を取れ、出てこなかったら皆殺しだ」と日本人に詰め寄った。正義感の強かった節子さんの父親は無関係にも関わらず、「俺が行く」と前に出たところを銃を向けられ射殺されたという。「タバコ畑に穴を掘って遺体を埋めに行ったんです。3歳だったけど、埋めに行ったというのは覚えてる」と節子さん。その後、身を隠しながら移動を繰り返し、旅順から引き揚げ船に乗り帰国したのは1年後のことだった。郷里の長野では、街ぐるみで父親の葬儀が行われた。
泣くと捕まるから殺せと
「俺らが入ったのは、中貫開拓」と話すのは、中都3丁目に暮らす尾曽章男さん(89)。6歳で満州に渡り、10歳前後で終戦を迎えた。その後、紆余曲折を経て家族で土浦に入植した。日本で最多の3万3000人余りの満州移民を輩出した長野県の中でも、尾曽さんの出身地、長野県飯田・下伊那地域からは突出して多い約8400人が満州へ渡った。尾曽さんは吉林省白山子に同郷者14~15軒と暮らし、現地に展開する日本軍に向けた米作りを担った。軍との繋がりもあり、安定した生活を送ることができていた。
敗戦後、状況が一変する。満州人の略奪から逃れて、焼けた工場跡地に身を隠し、移動中に投石を受けることもあった。武装した中国共産党の「八路軍」が近づき危険を感じると、生き残るために八路軍に参加していた日本人兵士に助けられたこともあった。まだ幼かった妹のゆきえさんは、周囲から「泣くとソ連兵に捕まるから殺してくれ」と言われたと当時を振り返る。
引き揚げたのは終戦から1年後。その間に病にかかった長男と長女が帰国を待たずに亡くなった。母親は引き揚げ船で感染した伝染病がもとで、入港した佐世保の病院で命を落とし郷里に帰ることができなかった。
1932年から45年の間に約27万人が満蒙開拓団として満州へ渡ったとされる。背景にあったのが昭和の大恐慌による農村の疲弊と、農村の土地不足や過剰人口を解決するためのほかに、資源確保など軍事上の必要性があり、渡満した約8万人が亡くなったとされる。長野県出身者が突出して多かったのは、世界恐慌後に生糸価格が暴落し主産業だった養蚕への打撃から農村が困窮したことと、地元の指導者が満蒙開拓に積極的だったことなどがあるとされる。戦後、戦争が生んだ移民の歴史が土浦へと繋がっていく。(柴田大輔)
続く